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視覚芸術史における「デジタルネンド」誕生の意味



文:中ザワヒデキ(マルチメディアアーティスト)

リード:
 このたびアスク講談社から発売された3Dツール「デジタルネンド」の「ネンド」のネーミングには、物質であることの強調という意図が託されています。世界初のビットマップ3Dである本ソフトでは、32X32X32=32768個の単位立体方眼を自由に定義する事ができ、ここに至って人類は初めて重力フリーかつトポロジーフリーな3次元世界を得る事ができるようになりました。これは従来のオブジェクト図形方式による3Dツールでは為し得なかった新事態であるどころか、美術史に連綿と流れる「ヴェネツィア派VSフィレンツェ派」という対立の図式においても、画期的な一大事件なのです。そのようなこの「デジタルネンド」誕生の意味を、このソフトの発案・ソフトウェアデザインを手がけた私、中ザワヒデキ自ら書かせていただきます。

目次:
§1 発案の経緯
§2 ビットマップ概念VSオブジェクト図形方式
   ○方眼VS方程式(世界所有の方法)
   ○物質VS物体(または原子論VSイデア論)
   ○植物的VS動物的(座標系とトポロジー)
   ○世界のキメラ性について
§3 美術史における2大対立図式
   ○ヴェネツィア派VSフィレンツェ派
   ○アナログ時代の間違った次元認識
§4 人類史上初の、重力フリーかつトポロジーフリーな3D感覚
   ○重力フリーのもたらす新感覚
   ○トポロジーフリーのもたらす新感覚
§5 デジタルネンドの『未来派』的仕様(時間軸の導入)
§6 ふかんモードの偽立方体仕様について
§7 定義系における所有感


●●§1 発案の経緯
 最初にこのソフトの骨子を思い付いた時、私自らこのソフトの開発者になるとはまさか思いませんでした。もうとっくに誰かが開発しているような、普遍的で便利なアイディアだと思ったからです。今から5年前の1991年、私はビットマップのジャギー溢れる「バカCG」という作風で毎日絵を描いていましたが、その頃に人から「3Dも簡単だよ」と言われて「Swivel 3D」という当事定番の3Dツールを初めて触ってみたことが、このたびのソフト発案のきっかけとなったのです。単刀直入に言うと「Swivel 3D」はちっとも私にとって簡単ではありませんでした。たしかに球や直方体は非常に楽に作れますが、ウンチみたいな不定形のものをグリグリ作るのは全然難しい。「何と不自由なのだろう」と感じた瞬間、ただちに了解したのは、この「Swivel 3D」が平面グラフィックでいうところのドロー系の概念に基づくツールなのだということ。そう、簡単と言われて私は、MacPaintのようなビットマップのペイントツールの単なる3D版を、無意識のうちに期待していたわけだったのです。
 ではこの世のどこかに私の考えるビットマップの3Dツールがあるのではないか? 私が思い付くくらいだからきっとどこかにもうあるだろう。はっきりしているのは目の前の「Swivel 3D」がそうではないということだけだ。……と考えたものの、その後誰に聞いても「そんなものは知らない」ということでした。いえ、一人だけ、「流体解析などでボクセルという概念はあるが、それを自由に編集する機能を持ったグラフィックユースのツールは無い」と教えてくれた人がいました。なるほど、しかしそれにしても、ビットマップの3Dグラフィックツールがこの世に無いとはおかしいとは思いつつ、では実際にそういうツールがもしあったらどんなだろうかと想像するにつけ、それはいよいよ実現可能な単純なものである気が一層してくるわけです。平面のビットマップが方眼という概念であるのと同様、立体においても立体方眼というものを想定すれば、ジャギーは出るけど簡単にウンチ様物体を作成できるではないか? もし計算速度が不安なら、ジャギーは粗くブロックっぽくはなるけど、たとえば16ドット立方といったような小さな立体世界しか扱えなくたって十分面白そうではないか? そして3次元上の個々の立体ドットを指定するには、右手のマウスからx座標とy座標を入力し、左手のキーからz座標を入力するようにすれば完璧ではないか?
 しかし、そのようにすぐには思い付いたものの、その後私は本業のアーティスト活動等に追われ、しばらくこのアイディアは寝かせていたという次第だったのです。
 そして昨95年初頭、アスク講談社さんから「何か作品のCD-ROMを作らないか」とのオファーを受け、作品のかわりに提案してみたアイディアが、このアプリケーションツール「デジタルネンド」だったわけです。単純で、決して特殊ではない一般的なアイディアのはずなのに、いまだにこの世に無いのなら、私自ら開発に携わろうと考えました。実際のプログラミングは(株)シンプルシステムズさんにお願いして、このたびの製品の完成となったわけです。


●●§2 ビットマップ概念VSオブジェクト図形方式
 ではここで「デジタルネンド」の最大の特徴であるビットマップということについて、その対極であるオブジェクト図形方式と対比することにより考えてみましょう。よくビットマップの解像度を上げればオブジェクト図形方式と変わらなくなるはずだと誤解している人がいますが、両者の対立はもっと人間の世界認識にかかわる根本的なものです。またここで用語の確認をしておくと、「ペイントツール」とはビットマップ概念に基づくグラフィック作成ツールのことであり、「ドローツール」とはオブジェクト図形方式に基づくグラフィック作成ツールのことです。

○方眼VS方程式(世界所有の方法)
 世界は全体と部分を合わせ持っています。その世界を認識し所有するには、次の2つの方法があると言えるでしょう。
 1つは全体を部分の総和であるとみなし、部分それぞれを正確に記述することによって、その総和であるところの全体をも所有しようとする方法です。ビットマップすなわち「方眼」という考え方はまさしくこれであり、方眼の各マス目を埋めることによって世界を造形しようとするものが、ペイントツールにほかなりません。すると、例えばこの方式で作られた大きな円は、一見1つの円には見えるものの、実は方眼の集合でしかないことになります。なのでよく見ればこの円にはジャギーがある反面、円の一部を虫食いにしようとする時には、いとも簡単に自由にそれができるわけです。
 世界所有のもう1つの方法は、部分を全体の一部であるとみなし、いったん全体の性質を正確に記述してしまえば、後から各部分の性質はその全体の性質から憶測できるとする方法です。オブジェクト図形方式すなわち「方程式」という考え方はまさしくこれであり、図形を記述する方程式を直接作成することによって世界を造形しようとするものが、ドローツールにほかなりません。すると、例えばこの方式で作られた大きな円は、見たとおりの正真正銘の単一の円であり、もうそれ以下に割って考えることはできません。なのでよく見てもこの円にはジャギーがない反面、円の一部を虫食いにしようとする時には、その円全体のアルゴリズムの書き換えをしなければならず、かなり面倒で不自由な事態となるわけです。
 さてこれら両者は神様の奇術であるところの無限大∞という概念を援用することにより、微積分法として知られる思想により交通できますが、実はそれはスキャニングという獲得系の話においてのみなのです。つまり方眼単位を極小にして解像度を極大に上げることにより、人間の側に本来無い世界を、強引に人間の側に引き寄せようとする話においてだけなのです(解像度を上げればより「真実」に近づくだろうということを、無意識に前提としていることが、なによりその証拠です)。そういった獲得系の話ではなく、人間の側の世界をそのまま出力しようとする定義系の話においては、方眼として定義されたものはどこまでも方眼であり、方程式として定義されたものはどこまでも方程式であるはずなのです。ビットマップはギザギザこそ大事であり、ジャギーを消そうなんて試みは言語道断というわけです。逆にオブジェクト図形方式ではたとえどんなに解像度が高いプリンタであろうとも、それによって得られる出力は常に「近似図形」に過ぎないわけでしょう。ここに至りビットマップとオブジェクト図形方式の、決定的な思想的違いが明らかとなります。

○物質VS物体(または原子論VSイデア論)
 またこの2大対立概念は、「物質VS物体」という対語を考えることによっても説明できるでしょう。物質とは原子論の立場からの世界認識です。また物体とはイデア論の立場からの世界認識と言えます。したがって以下のような説明がそこから引き出されることとなるでしょう。
 まず、方眼を世界の最小単位として認め、世界を方眼の集合であるとみなすビットマップの思想は、原子を世界の最小単位として認め、世界を原子の集合であるとみなす古代のデモクリトス的な原子論の思想と、本来同一のものです。原子論において、原子の集合は物質と呼ばれます。そしてその時物質は特定の形態的属性は有さず、特定の光学的属性を有します。例えばブロンズという物質の形態を考えるのはナンセンスですが、それが青銅色をしていることは確かなのです。したがって方眼の集合は物質と見なされて然るべきであり、ビットマップの絵画とは、本質的には色彩の集合体であると言ってしまってよいでしょう。ちなみに「デジタルネンド」が「ネンド」というネーミングによって物質であることを主張しているのはこのためなのですが、より正確には、カラーネンドのアナロジーこそ適切なのかもしれません。
 一方、方程式を世界で最初の原理として認め、すべてはその方程式から導かれるとするオブジェクト図形方式の思想は、初めにイデアの次元があると認め、すべて現実界はイデア界の性質に由来するのだとする古代のプラトン的なイデア論の思想と、本来同一のものです。イデア論において、イデアは物体として現れます(コップのイデアがコップとして現れるのです)。そしてその時物体は特定の光学的属性は有さず、特定の形態的属性を有します。例えばコップという物体の色彩を考えるのはナンセンスですが、それが水を入れるためのある形態をしていることは確かなのです。したがって方程式は物体と見なされて然るべきであり、オブジェクト図形方式のドローイングとは、本質的には形態の現前であると言ってしまってよいでしょう。ちなみにオブジェクトが単に物体という意味であることは言うまでもなく、また物体の造形の本質と表面塗装が本来別レベルであることは、ドローツールのカラー指定やテキスチャー機能が単なる造形後の付加機能でしかないことからも類推できます。
 これら「物質VS物体」という2項は、結局アリストテレスにおける「質料(ヒューレー)VS形相(エイドス)」の2大対立概念のことにほかなりません。しかしそのようにまとめる前に原子の考え方とイデアの考え方をきちんと参照しておくことによって、ビットマップ概念が(楽天的に)自明のこととしている単位方眼の意味、そしてオブジェクト図形方式が(悲壮的に)前提としている方程式の意味を、より明らかにすることができるわけです。

○植物的VS動物的(座標系とトポロジー)
 さらに多細胞生物の成り立ちにおいて、「多数の単細胞生物が集合してあたかも1つの生命体のように振る舞いはじめた」ものが植物の起源であり、「1つの生命体の単細胞生物が、そのまま多細胞へと分化した」のが動物の起源であるとする説があることを思い起こせば、ビットマップ概念VSオブジェクト図形方式の対立を、植物的VS動物的という図式でさらに解釈することも可能です。
 生物であることのアイデンティティはホメオスタシス(恒常性)の維持であると言われますが、植物はその最大の特徴であるところの、座標系に固定されるということによってホメオスタシスを保ちます。トポロジー(位相学)的に単一のものとして完結することによってではありません。
 一方動物の最大の特徴は座標系に固定されないということですが、そのかわり外界と内界とを明確に分かつことによって、すなわちトポロジー的に単一のものとして完結することによってホメオスタシスを維持します。
 この座標系とトポロジーのどちらをアイデンティティとするかを吟味することによって、以下の結論が導かれます。まず植物〜ビットマップ概念においては背景という概念は本来無く、座標位置で示される「キャンバス=全世界」のすべてが「単位方眼=物質」に満たされていると考えるわけです。2次元ペイントツールのキャンバスの無地は何もないわけではなく「白い方眼」の集合です。3次元ペイントツールである「デジタルネンド」においては空白の世界は「透明方眼」によって満たされていると考えます。水中花を考えてみてください。透明も色なのです。ビットマップ絵画においては背景から前景を切り出すことが本来不可能であり、それは植物が単体としては取り出せず、植木鉢によって座標系ごと切り出すしかないのと同様です。そして植木鉢には常に土が満たされているというわけです。
 次に動物〜オブジェクト図形方式においては全世界という概念は本来無く、「単一の完結したトポロジーだけがすべて」なのです。つまりドローツールのウィンドーは本当に単なる覗き窓でしかなく、球の一部しか見えていなくても視点変更すれば欠けていた部分が見えるのです。個々のファイルは動物の檻程度の意味しかなく、個々の図形がたまたまいくつかまとめられてファイル保存されていると考えれば理解が早いでしょう。また「トポロジーだけがすべて=トポロジー以外の制約を受けない」ということは、逆に言えばトポロジーに変更を加えない限りの拡大・縮小・変形・回転は、ドローツールでは楽に行えるということです。動物が伸びをしたり向きを変えたりしてもアイデンティティに変更は来さないのです。これは座標固定のペイントツールでは(整数倍拡大や90度回転以外には)擬似的にしかできないことと大きく異なる点です。しかしトポロジーに変更を加える改変はドローツールでは至難の業で、ペイントツールでは簡単に行える円の虫食いは、ドローツールでは外科手術並みの労力を要します。ちょうどそれは植物が簡単に挿し木や接ぎ木ができ、自ら株分けし地下茎から発芽さえするほどトポロジーフリーな状態なのに、動物はとてもそういうわけにはいかないことと相同な事態でしょう。

○世界のキメラ性について
 なおここまでは便宜上世界を2大原理の対立としてとらえてきましたが、実際にはわれわれはその2者を、むしろ場合に応じて巧妙に使い分けて世界を認識し、処理しているのだということを、一応述べておきましょう。すなわちわれわれにとって世界は両者のキメラと解釈されるという話です。
 たとえば鉄製のやかんは、平時は「水を入れて、とってを持って運ぶことができる」などといった物体としてのその諸性質をわれわれに呈示します。しかしひとたび戦時下の物資窮乏のおりにでもなれば、そのやかんは鉄という物質として徴収の対象となるのです。われわれは同じものを、ある時は物体として、またある時は物質として都合よく認識するのです。
 同様にペイントツールは本来ビットマップ概念にもとづき、すべての方眼を等価に考える思想に立脚していますが、たとえばそのラッソー機能は指定により囲まれたある方眼群だけをあたかも1個のオブジェクトのようにみなし、移動や変形の対象にしようとする、言わばドロー的機能なのです(実際には座標ごと植木鉢のように切り出し、向きを変えたり移動したりするような機能)。またドローツールは本来オブジェクト図形方式にもとづき、指示された少数の点から1個の単純な図形を作る方式に立脚していますが、たとえばそのフリーハンド機能は連続する手描きのマウスの動きから多数の指示点を読みとることにより、アルゴリズム的に解読しがたい図像を得ようとする、言わばペイント的機能なのです(手にとってフリーということはトポロジーにとってはフリーの逆で、動物に手枷・足枷を過重に付け、その本来のトポロジー的形態に戻ろうとするのを阻止しようとするような機能)。このようにツールはすでに、キメラとして世界を認識処理するわれわれの思考方式を(その良し悪しは別として)模していると言えるでしょう。ペイントツールがすべての機能まで完全にビットマップ概念だけに依拠するものではなく、ドローツールがすべての機能まで完全にオブジェクト図形方式だけに依拠するものでもないことを、一応ここでお断りしておきたいと思います。
 さらにはわれわれの認識処理以前の問題として、世界はすでに両者のキメラだとも言えます。たとえば植物の種子は、座標系に固定されずに完全なトポロジーを持つ、言わば動物です。また動物の肺は、肺実質と空気が複雑に固定的に絡み合っている、言わば(鉢植えの)植物です。これが前項で「植物VS動物」とはせずに「植物的VS動物的」とした理由なのですが、さらにこの方向性の話は哲学的には「鉄製のやかんを、純粋なやかんの形相と純粋な鉄の質料とに完全分離はできない」などといった話にまで飛躍させることができるでしょう。すなわち最初から世界はキメラとしてしか存在できないという言い方すらできるのです。結局この話は、幽体分離という言葉が問題にしている領域にまで行き着くことでしょう。
 従って逆に言えば、前項までに見てきた「ビットマップ概念VSオブジェクト図形方式」またはそれと相同な種々の2項対立は、もともとキメラである世界をなんとかエポケーすることなく説明しようとして編み出された2大対立概念だったと言うことができ、つまり2項対立からはもはや何も得るところが無いとする昨今の思想的風潮とは、おそらく逆の立場なのです。キメラをキメラのまま受け入れようとする考え方ではなく、いったん2項に還元してから解釈しようとするものです。そして付け加えさせていただけば、その2項対立図式(によって世界を満たすこと)はまだまだ完成すらしておらず、たとえば3次元のビットマップツールという空白の領域が、まるで手つかずのまま残されていたりすることがあるというわけなのです。


●●§3 美術史における2大対立図式
 遠近法の発明が美術史上の一大事件であるならば、美術もまた、世界を可視化し記述する方法についての間断なき探求の成果にほかならないかもしれません。前章で述べた「ビットマップ概念VSオブジェクト図形方式」という対立の図式は、まさしくコンピュータ世代における世界記述の2方法だと言えます。そしてその源流を、私は西洋美術史を連綿と形作ってきたルネッサンス以来の「ヴェネツィア派VSフィレンツェ派」という対立の図式に求めることができると考えております。つまりこの項では、本来ヴェネツィア派からの伝統とフィレンツェ派からの伝統のキメラとも考えられる美術史を、プログラミング用語出自の「ビットマップ概念VSオブジェクト図形方式」という対立の図式を用いて、さらに明確かつ的確に解読し直すことをも意図するというわけです。この項ではまず西洋美術史の流れをその立場から概観し、次に、アナログ時代に人類が次元に対して抱いていた「ある誤謬」について言及します。

○ヴェネツィア派VSフィレンツェ派
 まずヴェネツィア派とはイタリア盛期ルネッサンスの都市ヴェネツィアで興った画派で、ジョルジョーネやティツィアーノらがいます。この画派は世界を色彩によってとらえ、キャンバス上に絵の具を分厚く自由に置くことによりそれを表現しました。従って画布上にはたしかに形態が描かれていますが、むしろ本質はその色彩であり、その絵画が美しいとしたら、それは置かれた絵の具自体の光沢が美しかったからかもしれないのです。ティツィアーノは晩年、画面に生々しいまでのフデアトを残すようになりましたが、しかしそのフデアトに見る絵の具の物質の真実こそ芸術の源だったのです。言うまでもなくこれはビットマップ概念とほとんど相同なわけでしょう。
 一方フィレンツェ派とはイタリア盛期ルネッサンスの都市フィレンツェで興った画派で、ダ・ヴィンチやミケランジェロらがいます。この画派は世界を形態によってとらえ、人体解剖等を通して研究した沢山の形態の素描をもとに絵画を構成しました。従って画布上にはたしかに絵の具が塗られていますが、むしろ本質はその形態であり、その絵画が美しいとしたら、それはモデルの表面のトポロジーをいかにもそれらしく見せる方法を画家が熟知していたからかもしれないのです。ダ・ヴィンチが完成させたキアロスクーロ技法(薄塗りで明暗をグラデーションする)やスフマート技法(輪郭をぼかす)は絵の具に形態を演出させるためのトリックですらあり、しかしそのトリックによる形態のイリュージョンこそ芸術の源だったのです。ある意味でこれはオブジェクト図形方式と言うことができるでしょう。
 この「ヴェネツィア派VSフィレンツェ派」という対立の図式は、その後時代が変遷するたびに何度も新しい芸術理念となって生まれ変わり、今日の現代美術に至るまで脈々と美術史の底流を形作っているのです。近世においては「ロマン主義VS新古典主義」、近代においては「フォーヴィズムVSキュビズム」という対立の図式がまさにこれに相当するでしょう。
 例えば色彩の革命と言われるフォーヴィズムの画家マチスは、画家としての出発の時点において新印象派ゆずりの点描画法を採用していました。世界を光の集合としてとらえ、キャンバスに色彩のドットを分厚く置いていく点描主義は、容易にビットマップ概念との関連をわれわれに想起させてくれます。マチスのフォーヴィズム絵画は、色彩のドットをさらに大きく強調していくことによって生まれたのでした。
 反対に形態の革命と言われるキュビズムは、後期印象派の画家セザンヌの次の言葉を原動力にして誕生したと言われます。すなわち「球、円柱、円錐として風景を認識しなければならない」。まさにこの言葉は、オブジェクト図形方式を解説するためのコピーのようにさえ思えるのです。ブラックやピカソのキュビズム絵画は、この言葉を本当に実行してしまうことによって生まれたのでした。
 そして、さらに戦後のアメリカ現代美術に出現した「ミニマリズムVSコンセプチュアリズム」という対立図式も、本質はこの「ヴェネツィア派VSフィレンツェ派」の2項対立に由来するものだと考えられるでしょう。一言で言えば前者は匿名の物質という方向に突き出たイズムであり、後者は非物質の観念という方向に突き出たイズムです。ドナルド・ジャッドらに代表される前者は同じ色面や同じ立方体の単位の単調な繰り返しを特徴とし、これはまさにドットの大きなビットマップということでしょう。ジョセフ・コスースらに代表される後者は、例えばコスースの場合はイデアの可視化自体が問題とされ、作品「1つと3つの椅子」では椅子の辞書的意味が記されたパネルと、椅子の写真と、本物の椅子の3つがただ並置されたというわけなのです。ただ注意を要するのはコスースが、本来同じものである物体と言葉(方程式)とを峻別し、物体より言葉を優位であると見なしたまま物体と物質を混同してしまったために、ミニマリズムはコンセプチュアリズムの前段階であると解釈する混乱が起きてしまっていることです(本来両者間にヒエラルキーは無いはずです)。
 同時期のフランスに出現した「シュポール/シュルファス(支持体/表面)」運動は、還元主義としてまとめられる1つの運動の中に、ビットマップ概念型と目されるシュルファス側と、オブジェクト図形方式型と目されるシュポール側の2極を見いだしえる興味深い例です。すなわち支持体を失った画布に同形の空豆形を楽天的に展開させたクロード・ヴィアラが前者の代表例であり、画布を失った支持体の呈示から始め、動物のように伸縮するフェンスや、自由な向きに壁に立てかける作品等を制作するに至ったダニエル・ドゥズーズが後者の代表例というわけです。アメリカとはまた違った「ミニマリズムVSコンセプチュアリズム」と言えるかもしれません。そしてこの場合特にシュポール側は言葉というよりは物体であり、本稿の「物質VS物体」の図式によく合致します。
 同じく同時期の日本に出現した「もの派」と「日本概念派」は、ともに特異な日本的性格を帯びてはいても、「ミニマリズムVSコンセプチュアリズム」ひいては「ヴェネツィア派VSフィレンツェ派」の2項対立に、よく合致する対立概念と解釈されてもいいかもしれません。もの派の関根伸夫はまさにトポロジーへの関心から大量の不定形ネンドを匿名の物質として画廊に放置することに成功し(「空層-油土」)、日本概念派の松澤宥は「物質消滅儀式」を行った後、「見よそこに ただ白色の円を」と言葉で述べるだけの作品、すなわちオブジェクト図形方式における方程式を呈示するだけの作品へと至っているのです。ちなみに松澤の「白色円形根本絵画」「不可視の円」などの言い回しは、まさしくプリントアウトすると近似図形しか得られなくなってしまうオブジェクト図形の本質を言い得ているとも言えるでしょう。
 ちなみに日本語において「もの」が物質と物体の両方を指し示してしまうように、もの派においても還元主義的に物質だけでなく物体をもキメラ的に呈示している場合があるようです。ビットマップ概念の特徴は自明の方眼単位の楽天性ですが、菅木志雄のパラフィンの使用のように脆弱な方眼単位がわざわざ使用されることも日本では多々あり、さらに吉田克朗の木材とロープと石のように、もはや方眼単位と言うよりは、異なる素材による物体の出会いによるコラージュとみなしたほうがいい場合も少なくないのです(ちなみにここで「コラージュ」とはまさにオブジェクト図形方式側のキュビスト達が発明した「複数個の物体を檻に入れ放置する」形式であるわけで、さらにコンバインペインティングという独自のコラージュ手法を編み出したロバート・ラウシェンバーグに至っては、自らの並列的物体放置の様式をまさにダ・ヴィンチの画面から学んだと言明するのです)。つまり単位方眼が少なくなりすぎると、単位方眼は自明ではなくなり、物体としての様相を帯びてくるというキメラ的状況に直面するわけでしょう(「デジタルネンド」においても、個々の単位方眼は実はドローの概念で定義されているのです)。
 このように本質的なところでは両者を峻別し得なくなる場合があるとしても、全体の流れを見れば「ビットマップ概念VSオブジェクト図形方式」という対立の図式は「ヴェネツィア派VSフィレンツェ派」という図式を借りて、脈々と美術史の底流を形作っていたことが明らかとなります。そうするとデジタル時代において「ビットマップ概念VSオブジェクト図形方式」の図式は単なるプログラミング用語であることを超え、美術史的意味あいにおいてもっと認識されてもよいはずだと気付くことができるわけです。そしてさらに、このたび発想された3次元のビットマップペイントツールは、プログラミングの話だけでなく美術史的に見ても当然埋められるべき空白を埋めんがために登場した、普遍的な発想に基づくツールだと言えることもわかるでしょう。ただしそれがどんなに新しい事態をも招来することになってしまったかということに関しては、追って以下で説明されることとなります。

○アナログ時代の間違った次元認識
 本来普遍的な発想に基づくツールであるはずの「デジタルネンド」は、一方で人類史上初のまったく新しい生理感覚(次章で詳述する「重力フリー」「トポロジーフリー」)を呈示することとなり、それによってそれまで人類が持っていた次元に対する誤った認識を正してくれることとなりました。ここでは話の流れ上、そのアナログ時代の次元認識における誤謬について、先に西洋美術史の観点から述べることといたしましょう。
 一言で言うとその誤謬とは、「物質〜ヴェネツィア派」は2次元の特性、「物体〜フィレンツェ派」は3次元の特性とされることが西洋美術史の文脈において多かったということです。すなわち、絵の具という色彩物質で表現するからには、先に見た「物質」的諸性質(すなわちビットマップ概念の考え方)は絵画ひいては2次元のものであり、大理石から形態を切り出して表現するからには、先に見た「物体」的諸性質(すなわちオブジェクト図形方式の考え方)は彫刻ひいては3次元のものであるというわけです。このような解釈は特に、現代になり作品が還元主義的になるにつれて、画面からイリュージョンやマジック性を排そうとする傾向においてなされてきたことです。デジタル時代の今なら、われわれは2次元にも3次元にも、ビットマップ概念とオブジェクト図形方式の両方を等しく対等に適用できることを知っているわけですが、アナログ時代にはそうとは考えられていなかったのでした。
 この考え方にのっとって、もう一度「ヴェネツィア派VSフィレンツェ派 」の図式を検討してみましょう。アナログ世界しか知らない場合、このような誤謬が起こってもそれほど不思議はないことが引き出されるでしょう。
 まずヴェネツィア派の本性が2次元に宿るのならば、ティツィアーノの平面絵画の例はまるで問題なく解釈できます。すなわち彼は、ビットマップ概念よろしく、絵の具という色彩物質の真実を追求したのです。ちなみにこれは、デジタルグラフィックツールで言えば最初のビットマップの2次元ペイントツール「MacPaint」に相当する事態でしょう。
 次にフィレンツェ派の本性が3次元に宿るのであるならば、フィレンツェ派の中でもミケランジェロは絵画は彫刻のための下図にすぎないとヒエラルキー化し、彫刻にこそ真実があるとしていたわけなので、これも問題なく解釈できます。すなわち彼は、オブジェクト図形方式よろしく、大理石から切り出された物体の真実を追求したのです。新プラトン主義者であった彼は固い大理石塊という牢獄から、「魂=肉体」の形態を解放すると考えていたわけであり、精神的レベルの考察においても大変つじつまが合うわけです。ちなみにこれは、デジタルグラフィックツールで言えば定番だったオブジェクト図形方式の3次元ドローツール「Swivel 3D」に相当する事態でしょう。
 そこで問題となるのが、彫刻より絵画を優位に考えたフィレンツェ派のダ・ヴィンチです。結論から先に言うと、彼の場合は前述したように、絵の具という物質の「トリック」性をこそ追求したのだという言い回しにおいて、すなわち真実を追求したわけではないという言い方において、つじつまが合うと言えるでしょう。本来物質である絵の具を、物質を感じさせない技法によって扱うその魔術的イリュージョニズムこそ、彼の関心事だったというわけです。デジタルグラフィックツールで言えばビットマップ概念のまま、その依って立つところの方眼を目立たなくする機能ばかり充実させた2次元ペイントツール「Photoshop」に相当する事態だと言えます。「Photoshop」とはある意味で、オブジェクト図形方式を「獲得」するためのペイントツールだと言えるのです。
 さらに厳密に言いましょう。前項の解説では便宜的に、フィレンツェ派は「ある意味でオブジェクト図形方式」と述べました。しかしそれは、「フィレンツェ派の平面絵画は、オブジェクト図形方式の3次元ドローツールにおける、2次元投影法としての『カメラ機能』に相当する」と言った方が、おそらくより正確なのです。まさしく「Photoshop」は、「獲得系」ツールとして、字義通りカメラの機能を目指しているのです。つまり「オブジェクト図形方式の3次元ドローツールにおける、2次元投影法としての『カメラ機能』」をプログラムに自動計算させてしまうのが、本当に従来の3Dツールにおけるカメラ機能なのですが、その際のマジック・エフェクトの数々を、人間がある方向にある意図をもって調節しようとするのが、一応2次元グラフィックツールの範疇である「Photoshop」だというわけでしょう。そう、ダ・ヴィンチは立体物より絵画を優位に考えたのではなく、立体物という実物より、立体物の写真を優位に考えたのだと、厳密には言い直されるべきなのです。そして時代が下るにしたがって、まず本物のカメラの登場により、印象派の画家達によって、このカメラを演出するところの平面絵画における「絵の具の魔術的イリュージョニズム」は排斥されるところとなり、さらに巨大キャンバスの出現により、アメリカ抽象表現主義の擁護者クレメント・グリーンバーグらによって、このイリュージョン性は理論的にも徹底的に排斥されるところとなったというわけです。
 さて話を戻しましょう。2次元におけるフィレンツェ派の例に言及したからには、3次元におけるヴェネツィア派の例についても触れておきたいと考えます。印象派と同時代のロダンの彫刻がわかりやすいでしょう。彼は物体表面のトポロジーをではなく、3次元物質の量塊をこそ表現しようとし、そのため固い大理石塊を素材としたミケランジェロとは違い、展性のあるロウやネンドをどんどん肉付けしながら芸術的創造の作業をしたのです。しかし作業が完成し表面が冷たい完結したトポロジーと化してしまえば、作業中に彫刻家が触りながら感じた自由な物質性はもはや著しく損なわれてしまうこととなるでしょう。そこで彼のとった方法が「作品を未完に残す」やり方だったのです。彼は未完成性こそ芸術の原理だと考え、表面を不規則に荒々しいまま残しました。その感覚はフデアトをあらわにするティツィアーノの作品にも、そう言えば共通するものかもしれません。しかしティツィアーノの平面絵画においてはその物質を直接われわれはすべて見ることができるのに、ロダンの立体彫刻においてはその自由な物質性を、われわれは表面の荒々しさから間接的に想像するしかないのです(次章で詳述するトポロジーの絶大な制約のせいです)。ロダンの彫刻は確かにヴェネツィア派的ではありますが、ティツィアーノほど直接的にはなり得なかった、間接性のつきまとったものであったと言えるでしょう。そしてデジタルグラフィックツールで言えばビットマップ概念に基づく3次元ペイントツール「デジタルネンド」こそが、そのロダンのやろうとしたことを初めて正当に継承しようとし、しかもロダンに否応なくつきまとった「間接性」を、人類史上初めての新しい生理感覚 とともに、見事に解決さえしてしまったものだと言えるのです。
 このように2大対立図式と次元との関係について考察してみると、なるほど物質の真実は2次元にこそ宿り、物体の真実は3次元にこそ宿るとする誤った認識も、デジタルツールを持たなかったアナログ時代には決して根拠の無いものではなかったことがわかります。ただし上記のルネッサンス以後の西洋美術史の立場からの説明では、たとえば日本の浮世絵に見るような世界認識が抜け落ちてしまっていることに、留意しなければなりません。木版の浮世絵は、ダ・ヴィンチと違い3次元の立体トポロジーを2次元平面上に投影することを放棄したかわりに、2次元世界内での真実の平面トポロジーを得るに至った、言わば最初の2次元ドローツール「MacDraw」にも相当するような事態であったわけなのです。ただし、現実空間において平面物体という概念は存在しにくかったかもしれません。それで西洋美術史においては浮世絵の立場は盲点となり、上述のような誤謬がまかり通ることともなったのかもしれないのです。
 そしてさらに補足すると、浮世絵の流入を受けた印象派以降の西洋の画家の作品にも、「MacDraw」的な真実の2次元オブジェクト図形方式的は、見受けられないわけではなかったのです。ロートレックの石版画ポスターがそうですし、また「熱い抽象」を発明した後の後期カンディンスキーの作品もその類でしょう。ただ前者は美術史における重要なイズムを呈示しえておりません。後者はモンドリアンとの対比において興味深い存在であり、特に彼にとって無地キャンバスが座標系というよりただの空虚としてしか認識されていなかった点は特筆されるべきだと思いますが、同時期の同様のオブジェクト図形方式の物体の放置の試みは、まさにダダの「オブジェ」作家であったハンス・アルプのレリーフや立体彫刻の方に、より徹底性を見ることができるのではないでしょうか。すなわち後期カンディンスキーの仕事は、平面であることの必然性を、それほど強くは打ち出せていないと私は思います。
 次章では、この章で整理した美術史における2大対立概念と、さらにその次元との関係を、より明確に呈示するきっかけとなった「『デジタルネンド』がもたらした新しい生理感覚」について考察します。


●●§4 人類史上初の、重力フリーかつトポロジーフリーな3D感覚
 本来普遍的な発想に基づいて発案されただけにすぎないツール「デジタルネンド」は、一方で人類史上初の、まったく新しい生理感覚を呈示することとなり、それによってそれまで人類が持っていた次元に対する誤った認識を根本から正してくれることとなりました。具体的に「デジタルネンド」は新しい生理感覚として、人類史上初の「重力フリーかつトポロジーフリーな3D感覚」を実現したのです。このことはたとえてみれば、負の数の発見に比されてもいいかもしれないような事態なのです。四則演算をまっとうに実行することによって導かれた負の数の発見が、人類の数に対する感覚をより正しく拡げてくれたことと同様、物質をまっとうに配置することだけを目的とした「デジタルネンド」は、人類の3次元に対する感覚を正しく拡げ、アナログ時代に人類が3次元に対して持っていた不十分な認識を、粛正してくれることとなったのです。
 前章では、そのアナログ時代の次元解釈における誤謬について、美術史の立場から解説しました。本章では人類史上初めての新しい生理感覚とその誤謬を、プログラムということがもたらす本来のその数学的意味から解説します。

○重力フリーのもたらす新感覚
 前述したようにビットマップの特徴は徹頭徹尾座標系に固定されるということです。これは逆に言えば、座標系以外に不用な制約を受けないということでもあります。画家がキャンバスの左上に赤い絵の具を置いたとき、絵の具は画家の意思通り、その与えられた座標にちゃんととどまってくれるのです。落ちてきたりはしません。これが、アナログの2次元世界がビットマップ概念でとらえられがちだったことの根拠の1つとなっています。
 アナログ3次元においては、自然には重力の制約からわれわれは逃れられません。画家は空中に赤いネンドを、それほど自由には置けないのです。つまり画家が空間座標に物質を自由に配置しようとする努力は、しばしば無効となりがちだったのです。反対に彫刻家にとっては、重力の制約はそれほど問題になりません。トポロジーはどんな向きに置いても保たれるからです。檻の中で動物が移動することにいかほどの意味があるでしょうか。そしてその「重力の制約」の存在が、アナログの3次元世界がオブジェクト図形方式の思想でとらえられがちだったことの根拠の1つとなっていたのです。
 したがってコンピュータ内の現実において、われわれは初めて重力の制約からの解放を体験していますが、それは特にビットマップ座標系において刮目すべき新事態なのです。よく私は「デジタルネンド」説明の際に、「宇宙空間でマヨネーズチューブから、自由にマヨネーズを出してる感じ」と形容しますが、これは種々の飾りをクリスマスツリーに取り付けるのとは違い、明らかに人類史上初めての体験のはずなのです。ですから「デジタルネンド」は、特に何かを造形しようと意図しなくても、チューブツールを触るだけでとても新鮮な感覚を味わえるわけなのでしょう。特殊機能として付けた「全世界重力落下」が、逆向きに新鮮ですらあるのです。

○トポロジーフリーのもたらす新感覚
 トポロジーフリーとは、ここまでの説明ではウンチ様物体をグリグリ手描きすることができ、円の虫食いも簡単であるという意味においてでした。確かにこの意味での自由なペイント感覚は、「デジタルネンド」によって初めて3次元上でも達成されたのだと言えるでしょう。しかしアナログ3次元との比較においては、さらに重要な新事態がこのトポロジーフリーということから導き出されるのです。具体的には3次元物体の内部構造が初めて自由に見たり描いたりできるようになったということです。つまりトポロジーフリーという事項には、前述の手描きの自由ということと、ここで述べる物体の内部が扱えるということの、2つの意味が含まれているのです。そして後者こそ重要なのです。
 数学的意味において、トポロジー的に閉じられた空間は、その外部からは永遠にたどり着けません。2次元の蟻は、平面上に置かれた輪ゴムの中の砂糖に、決してたどり着くことができないのです。しかしその蟻が3次元存在なら、彼は輪ゴムを簡単に乗り越えることができるでしょう。同様に3次元存在であるわれわれ人間は、2次元絵画における2次元トポロジーの制約の存在に、さしたる関心を向けるべくもないのです。これが、アナログの2次元がオブジェクト図形方式でとらえられがたかったことの根拠の1つとなっています。
 しかしアナログ3次元においては、今度は3次元トポロジーの制約が絶大のものとしてわれわれの前に立ちはだかってきます。3次元存在のわれわれは、3次元的に閉じられた缶詰の中身に、缶詰のトポロジーを破壊することなしには決してたどり着くことができません。ピエール・マンゾーニの「芸術家のウンチ」という、缶詰に自分のウンチを入れた作品を前に、われわれはまるで輪ゴムを越えられない2次元の蟻のごとくです。これがロダンすら直接には解決できなかったアナログ3次元におけるトポロジーの絶大な制約ということであり、アナログの3次元が、オブジェクト図形方式の思想でとらえられがちだったことの根拠の1つとなっていたのです。
 さて「デジタルネンド」の開発の初期、私はプログラマーさん達に「ユーザーを4次元存在にしちゃっていいです」という言い方で方針を伝えたことがあります。具体的にマウスポインタは、物体の表面を突き抜けてどんどん物体内部の奥の座標へと入って行けてしまうことが、開発前から当然予想されました。それをプログラミングによって奥へは入っていけないように最前面の立体方眼で止めることも勿論できるのですが、ここまで来てどうしてわざわざアナログ3次元をこのソフトで模する必要があるのでしょう。5から7を「引けない」と言う必要はないのです。「5−7=−2」の発想で、本来トポロジーの制約の無いビットマップ座標系内で、トポロジーフリーを真に謳歌し、どの立体座標をも等価に指定できるようにすることこそ、初のビットマップ3Dツールの使命だと考えました。その「どの立体座標をも等価に指定できるようにすること」がアナログ界では4次元存在でなければ達成できないのであるならば、前述の比喩をも恐れず使ったというわけです。そしてあたかもわれわれは4次元存在であるかのように、表面より奥の立体方眼に色を付けたり、透明色に戻したりできるようになったのです。
 この話は特に「ふかんモード」での話だったのですが、さらにCTスキャン画像をほうふつとする「スライスモード」についても一言触れておきましょう。私は医者なので学生時代に順番に並べられたCTスキャンから人体内部の構造を立体的に把握する訓練を受けたわけですが、一見立体物には見えないこのモードでも、見慣れればこれもまた1つの3次元感覚だと言えるのです。そしてそれがさらに「ぱらぱらウィンドー」によって常にモニタされてしまうのですから、次のように言うことができるでしょう。すなわちアナログ3次元の彫刻家は、結果的にはロダンでさえ、表面トポロジーにのみ責任を持てば済んだのですが、「デジタルネンド」のユーザーは、もはや内部構造にまで気を使わなければ気が済まなくなるでしょう、と。3次元の感覚はこのようにして、まったく新しい感覚へと拡大を余儀なくされると考えられます。
 したがってこれら「重力フリー」に由来する空間座標世界の完全所有、「トポロジーフリー」に由来する物体内部世界への言及により、まさに新しい3次元の真の感覚が初めて得られることとなり、このことは人類の生理感覚の歴史の上からも、ヴェネツィア派VSフィレンツェ派の対立の図式を軸とする美術史の上からも、すなわち人類の世界把握の歴史において、実に画期的な大事件であると考えられるのです。


●●§5 デジタルネンドの『未来派』的仕様(時間軸の導入)
 前章までは「デジタルネンド」の属する「ビットマップ概念による3Dペイントツール」というジャンルから、必然的に導かれてくる種々の性質について述べましたが、本章以降では、さらに本ソフトならではの工夫についていくつか記します。すなわち本ソフトに追随して同ジャンルに他のツールが出現してきた曉には、前章まではこのジャンル共通の特徴となる事項が記されていたわけですが、本章以降は各ソフトによって異なるであろうことが予想されるわけです。
 まず本章では、「デジタルネンド」では立体物の感覚的理解のための工夫を、時間軸の導入により行ったということを述べておきましょう。従来のドロー系3Dツールでは通常ライティングと影付け、ならびにパースの導入によって静的に立体的感覚や遠近感を表現していますが、本ソフトではライティングと影付けは便宜的なものしか行わず、またパースの導入も行いませんでした。そしてその代わりとして具体的には「ふかんモード」の立体物がぐるぐる回転し続ける「ぐるぐるウィンドー」と、「スライスモード」の各レイヤーがCTスキャンアニメーションよろしく順にぱらぱら表示され続ける「ぱらぱらウィンドー」とが、常にデフォルトでは開いているようにしたのです。すなわちそれらのウィンドーの動的アニメーションにより、立体感を表示することにしたわけです。
 先に、静的な立体表示をあまり強化しなかった理由をここで述べておきます。オブジェクト図形方式と違ってビットマップでは物質に固有色があるわけですから、それをまず大切にしたかったというのが1つめとして挙げられます。つまりライトアップでどんどん色が変わっては困るわけで、ユーザーに固有色のあるソフトだという認識を新たにしてほしかったわけです。また個々の立体方眼(ちなみに本ソフトではそれを「ボクセル」と呼んでいます)はすべて等しい同じ形・同じ大きさなのだということをアピールしたかったというのが2つめとして挙げられます。パースを導入しないということは無限遠からながめるということであり、そうするとすべてのボクセルが同じ形、同じ大きさで表示されることとなるのです。従って赤なら赤という一種類のボクセルにつき正面・上面・横面用に3色の赤しか割り当てをせず、便宜的なライトアップの向きも正面からの固定としました。それによってユーザーはライティングや影付けをいちいち気にせずともよくなったわけで、純粋に色彩物質を好きな場所に置くことに専念できるようになったわけです。
 さて「ぐるぐるウィンドー」は、たった90度ずつ非連続的に回転しているだけにも関わらず、このアニメーションによって立体感が強力に把握できるようになるものです。ただ回転するだけで立体感を表現するということは珍しくはありませんが、それをデフォルト表示して本ソフトでは強調しています。ただしこれは後述する特殊な投影図法を採用した「ふかんモード」における回転であるため、ただの立体物の通常表示とは感覚が異なり、逆にこの「ぐるぐるウィンドー」で見て面白がるための立体物なども作成できるようになるわけです(私の作成したスタンプのプリセット5にいくつか実作例を入れてあります)。
 次に「ぱらぱらウィンドー」は、立体物のCTスキャンアニメーションと同様のものです。つまりこのウィンドーのアニメーションがデフォルト表示されることによって、立体感は否応なく強調されるわけです。さらにはトポロジー的に従来は言及せずに済んだ物体の中身までが常にモニターされることにより、作者は物体内部にまで責任を持ちたくなるはずだという事態については、前章でも説明した通りです。
 しかしすぐおわかりのように、この「ぱらぱらウィンドー」の存在は逆にパラパラマンガを想起させるものであり、すなわち「ぱらぱらウィンドー」で鑑賞するためのパラパラマンガを、「スライスモード」で作り上げるということだってできるというわけなのです。立体物を時間軸上に展開するという方向性とは逆に、アニメーションを立体物として組み立てるという逆向きの使い方が全く可能だというわけです。そうしてできた「パラパラマンガ・立体」は、特に背景を透明色に設定してある場合に「ふかんモード」や「ビューワー」で、異様な立体物として見ることがでるでしょう。このいわゆる「パラパラマンガ・立体」は、映画の父と言われるフランスの科学者エティエンヌ・マレイが学術目的で制作したブロンズ彫刻「カモメの飛行」に、その先例を見ることができます。そしてそのマレイの研究に多大な影響を受けて出発したイタリアの未来派こそが、おそらく美術史上でもっともきちんと時間軸に言及する作品を制作した最初のグループだったと言えるでしょう。力や速度を賛美した未来派のアーティスト達は、何とか時間軸を視覚化しようとして、足の沢山描かれた犬の絵等、奇天烈な作品を多く残したのです。言わば、当事の少数の未来派のアーティスト達が感じていたリアリティは、1世紀近くたってようやく本ソフトにより、やっと万人に共通する感覚へと開示されたわけだとも言えるでしょう。このような「未来派を実現するためのツール」であるという意義も、開発前から私はずっと予想していたことだったのです。
 この「ぱらぱらウィンドー」についてもう少し厳密に触れると、それは座標軸のz軸に時間をそのまま当てはめた、すなわちz軸をt軸と解釈することによって得られたものだということです。本来モニタ画面はx軸とy軸しかない2次元ですから、そこで3次元を表現しようとするとどうしてもどこかに無理が来るわけで、たとえば従来のドローの3Dツールで採用されているライティングやパースの導入も、ダ・ヴィンチの研究と同じく遠近のイリュージョンを発生させるためのトリックでしかないわけです。しかしz軸をt軸に置き換えれば(これまた4次元の領域からのアプローチではありますが)、これはイリュージョンではない、あるリアルだと言えるでしょう。ちなみにz軸をt軸に置き換えるという発想は93年頃一世を風靡した裸眼立体視ブームの頃に、立体物を角度の違う2枚の平面写真から立体視するだけでなく、時間差のある2枚の写真から立体視をすることもできるのだという経験に基づいています。ちなみに今回は実現しませんでしたが裸眼交差視をしながら立体物を作るというモードも発案しました。


●●§6 ふかんモードの偽立方体仕様について
 このソフトにおいて特記すべき発明は、実は何気ない「ふかんモード」の仕様なのです。よく見るとこれは「ビューワー」と全然異なり、現実にはこう見えるはずがない「全世界」の立方体の形をしています。すなわち、奥から手前にかけて32面のレイヤーがすべて見た目にも正方形となり、その正方形がモニタ画面のxy平面とまったく一致しているのです。そして手前から奥へは1レイヤー進むごとに45度左上に、距離にして半ボクセル分進む仕様になっています。すなわち(1, 1, 32)のボクセルのちょうど2レイヤー奥に(2, 2, 30)のボクセルが重なっているのです。
 したがってこれは「偽立方体」的な仕様なのですが、この偽立方体仕様を導入したことが座標系の所有感と操作性を飛躍的に高めたのでした。なぜなら、この偽立方体仕様においては全世界の固有座標系と、視覚座標系がxy平面において完全に一致するからです。z軸方向も感覚的にとてもわかりやすいので、視覚座標のz軸をわざわざ持たずによくなり、マウスポインタは世界の固有座標系だけに従えばよいことになるからです。すなわちもっとわかりやすく言えば、左手から「↑」「↓」キーによってz座標を変更しない限り、いくら自由にマウスを右手で動かしても、マウスポインタの指し示す座標はz座標の同じレイヤーにとどまるということです。このことによって、実は「ふかんモード」と言いながら、この偽立方体表示は「スライスモード」の表示方法だけを変形したものにすぎないのだということがわかるでしょう。したがって「ふかんモード」と「スライスモード」では、同じツールを同じように扱うことができるというわけです(これがまた、「スライスモード」を使いなれる人にとって新しい3次元感覚を呈示することとなるわけです)。
 この偽立方体表示を最初から見慣れるとあまりこれが画期的なこととは思えないかもしれませんが、実はここに行き着くまでにかなりの時間がかかりました。それまでは「ビューワー」と同じような通常の斜め位置の角度から編集作業をすることにしなければならないだろうと覚悟していたわけで、すると視点座標に従ってマウスポインタが動いた時、それが世界の固有座標ではどこに来ることになるのか、そしてその感覚はどのくらいわかりやすいのかが非常に疑問だったのです。何度もプログラマーさん達とは夜遅くまで議論して、時折「スライスモードだけしか必要ないのでは」などという意見すら出ていたほどでした。裏話になりますが、アスク講談社さんの別の仕事(CD-ROM「KIDS BOX」)に一時期私がかかりっきりになってしまって2カ月近く「デジタルネンド」のミーティングを行っていない時期がありました。そしてその後の最初のミーティングの前日、シャワーを浴びながら「そういえば明日は久々のミーティングだったな」と何気なく思い出していた時に、フッとこの偽立方体仕様のアイディアが浮かんだのです。気付いてしまえば、どうしてそれまで気付かなかったのか不思議なほど簡単で便利なアイディアです。最初のジャンルの開拓時には、こういった簡単なことに気づけないようなことも、多々あるわけなのでしょう。
 ただ使っているアルゴリズムがこの偽立方体仕様用に特別にあしらえたものではないため(「ビューワー」用に作られたアルゴリズムなため)、「ふかんモード」ではレイヤー間にちょっとだけスキマができてしまうことになりました。なのでこのスキマはわざと作ったものではありません。そして、このモードに見慣れるとこの偽立方体仕様でこそ感じられる3次元感覚というのがまた出てくるわけで、従来の通常の3次元感覚とはちょっと違うかもしれませんが、私の会社で作成したスタンププリセット1の図形シリーズ、スタンププリセット5の各種スタンプには、「ビューワー」よりも「ふかんモード」(さらには「ぐるぐるウィンドー」)の偽立方体仕様でこそ見てほしい作例もいくつか含まれているわけなのです。
 なおこの文章を書いた後から人に指摘していただいたことですが、ここで採用されている偽立方体仕様は正確にはオプリーク投影図法と呼ばれる投影法の一種なのだということです。「ビューワー」で採用されている通常の斜視図は斜軸投影図法と呼ばれるもので、投影法の違いとして数学的には理解できるものだったというわけです。


●●§7 定義系における所有感
 最後に簡単に、もう一度定義系の話を簡単にしておこうと思います。
 ビットマップで絵を描くということは、個々のドットに色を与えたり、消したりする作業です。32X32ドットのアイコンを作ったことのある人ならわかるかもしれませんが、小さいサイズの絵ほど1ドット1ドットの重みが増し、1ドットに込める気持ちや気合いは大きくなろうというものです。
 美術史においても後世になるに従って、ヴェネツィア派の絵画は個々の方眼単位を大きくしていきました。ということは時代が下り、より還元主義的になるにつれて画家の定義しようとする全世界のドット数は小さくなっていったのだということを意味します。これは何を意味するのかというと、より小さい世界こそ「このドットをこう定義するのだ」という世界所有感が強まるということであり、これは実は私はバカCGというスローガンのもと2次元のイラストを描いていた頃から気付き、テーマにしていたことだったのです。ギザギザこそ大切だと、事あるごとに発言させていただいているのはこのような意図からなのです。
 この「デジタルネンド」は、そのような私の思いをアスク講談社さんを始めとするみなさんがよく理解してくださって製品となったものです。通常では32X32X32=32678個と言ったところで、解像度が低すぎてたとえば人体内部を精緻に記述するような実用にはならないと、常識的には考えられてしまうかもしれないところでしょう。しかし私は「アイコン限界フロッピー」という、1枚のフロッピーに空き容量が0KBになるまで424個のアイコン画を詰め込んだ作品の作者でもあり、32X32の大きさでいかに定義系としては表現に十分であるかということを身を持って知っていたつもりだったのです。それで、世界の大きさを大きくするよりもマウスの操作感とスピードを最優先にしてもらい、色数はRGBCMYの6色と白と黒と透明の計9色の論理的基本カラーに抑え、ぐるぐる・ぱらぱらウィンドーをかなり優先して付けてもらったわけなのです。
 そしてもう 1つ、これも小さいサイズであるほど所有感が高められることの大きな理由になると思いますが、世界のサイズが大きいと、「スライスモード」で並べたとき、感覚的に把握できる範囲を超えてしまうことになるでしょう。もし320ドット立方の大きさになったら、一度に320枚のレイヤーが並ぶことになり、それではとても感覚的に処理できません。おそらくそのときは10枚ずつまとめて表示するなどの方法がとられると思いますが、そのような方便を使えばやはり定義系における所有感は減ることとなります。もちろん、獲得系には使いやすくはなります。
 したがって「ネンド」を標榜しつつも個々の単位方眼が大きく「ブロック」のように一見見えてしまうこととはなったわけですが、以後、このジャンルにおける解像度の高いソフトが出てきたところで、この32X32X32のサイズの「デジタルネンド」で得られる所有感は、今後もかけがえのないものではないかと考えます。
 そして本当に最後に、ではなぜそんなにしてまで「世界所有」しようとするのかという根源的な問題についてですが、それは新大陸を発見したときどうするかというモダニズムの問題にも相同する問題だと考えております。私はまっこうからモダニズムを肯定する立場ではありませんが、かといって最初から否定に回るつもりもありません。一応このソフトはモダニズムの立場から、モダニズムの美学によって満たされてない領域を埋めるべく作られたと言うことはできるでしょう。ただしこの話題にこれ以上深入りするにはさらに相当量の文字数を必要とし、また本稿の一義的な意図からも少しばかり遠くなってしまうので、また機会あれば別稿として書くことに致します。


−以上−   中ザワヒデキ 1996.08.12第3版 記

*このテキスト「視覚芸術史における『デジタルネンド』誕生の意味」はまず96年7月1日に全文が書き上げられ(第1版)、96年7月31日に少々改変を加えた第2版、96年8月12日にさらに改訂を加えた第3版が記されました。
・第1版(1996.07.01)---96年7月18日にアスク講談社より発売された「デジタルネンド」(Macintosh版)製品CD-ROM内に、その全文をテキストデータの形で収録。
・第2版(1996.07.31)---東京都写真美術館での「デジタルネンド」の展示(96年8月1日〜9月23日)に関連して配布された印刷物に掲載。
・第3版(1996.08.12)---中ザワヒデキのホームページ(http://shrine.cyber.ad.jp/~nakazawa/NAKAZAWA)上で96年8月12日より公開。ならびに96年11月8日にアスク講談社より発売された「デジタルネンド」(Windows版)製品CD-ROM内に収録。
・また、同文章の第1版の全文を書き上げる前にその一部を抜粋した内容のものが、上記「デジタルネンド」製品のユーザーズガイド、さらには玄光社刊「SUPER DESIGNING」誌16号に掲載され発表されています。

*本テキストを補足する目的で書かれた「付録1:デジタルネンドならではの新感覚立体実作例」「付録2:デジタルネンド・ネーミング裏話 」「付録3:立体プリンタについて」も、合わせてお読みいただければ幸甚です。

*中ザワヒデキのホームページ内に、さらに中ザワヒデキによるデジタルネンドのホームページをオープンしています(http://shrine.cyber.ad.jp/~nakazawa/NAKAZAWA/nendo)。アスク講談社さんのホームページ(http://www.ask.object-design.co.jp)ともども宜しくお願いいたします。




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