現代美術史日本篇[5] 1980-1984 脱前衛5a 日本のポストモダニズム: 内部と外部 5b 5c 5d

5a
日本のポストモダニズム: 内部と外部
Postmodernism in Japan: Inside and Outside

【本文確定】

1980年代初頭に世界の諸文化を席捲し、ニューウェーブと呼ばれたポストモダニズムの熱狂は、日本においても激発しました。ただし美術におけるその熱狂は、内部すなわち既成の現代美術界では時代支配的なイズムと見なされるまでには至らず、むしろその言い方が似合ったのは、外部すなわち近隣のイラストレーション分野でのことでした。ところが後者の「ヘタうま」や「日本グラフィック展」は、「反イラスト」と呼ばれ得るれっきとした芸術のための芸術だったにもかかわらず*5a1、今日に至るまで日本美術史には組み込まれていません。本書の目的の一つは、後者を正史として扱うことです。

ポストモダニズムは一種の反モダニズムでした*5a2。未視感 (ジャメ・ヴ) をテーゼとする進歩思想や前衛主義が葬り去られ、既視感 (デ・ジャ・ヴ) の肯定によるレトロ趣味が横行し、「脱前衛」が唱えられました。ヒエラルキーの無効化が叫ばれてハイカルチャーとサブカルチャーの境界侵犯が歓迎され*5a3、二項対立が忌避され主体性と努力主義と男性原理に疑義が突きつけられました。ジャンルや歴史の無効化も図られ、理性より感性が重視され、アマチュアリズムが跋扈して年若い「表現主義的な」表現者が大量に出現し*5a4、世代交代によって前時代との断絶が顕わになりました。日本では「ニューアカ」と略称されたニュー・アカデミズムの流行が、諸文化におけるこの動向に拍車をかけました*5a5

冷戦体制はこの時点では存続していましたが、1989年のベルリンの壁崩壊に至る変質の予感が世界的に共有されていたのかもしれません。英サッチャー政権の誕生が1979年、米レーガン政権が1981年、日本の中曽根政権は1982年、共通して新自由主義的な政策が打ち出されました。また、日本では西武流通グループ(後のセゾングループ)が1970年代後半から文化支援戦略に乗りだしました。傘下の美術館では国内外の現代美術を積極的に購入紹介し、都市型大規模店舗「パルコ」ではサブカルチャーや若者文化を発信、宣伝広告分野では商品広告ではなくイメージ広告という新手法で「広告の時代」をリードしました*5a6。特に糸井重里のコピーによる「じぶん、新発見」(1980年)、「不思議、大好き」(1981年)、「おいしい生活」(1982年)等のキャンペーンは、消費を通じた啓蒙により現世肯定気分を煽り、冷戦時代特有の時代閉塞感を過去のものへと追いやりました。

ポストモダニズムは理論的には規範の欠如による多様性と平板化を惹起するはずですが、実際にそうなったのは1995年以降のことです*5a7。1980年代前半はむしろ表現主義、1985年以降は反芸術が実際には規範として作用していました。すなわち言説ではなく実態としての1980年代初頭の脱前衛は、「脱前衛という名の前衛」だったと考えられます*5a8。同様に、既視感は「既視感という名の未視感」、サブカルチャーは「サブカルチャーという名のハイカルチャー」、そしてポストモダニズムは「ポストモダニズムという名のモダニズム」でした*5a9。さらには、こうした規範に忠実な1980年代の日本の一部の視覚表現者たちは、「美術」の名を捨て、外部にさえ出ました。「外部という名の内部」だったからです*5a10。これは、堀浩哉が1969年に立てた設定「今、美術家と呼ばれているなら、そこが戦場だ」さえも無効にするパラダイムシフトとなるはずでした*5a11

ところがです。嵐にも似たニューウェーブの季節が過ぎ去ると、残ったのは実態ではなく名前でした。名前のないものは見えなくなり、欧米と比較しても決して下火ではなかったはずの表現主義の熱気が、日本にはほとんど無かったことになりました。もっともこれは、理論的にはポストモダニズムの成就であり、反芸術の達成だったかもしれません。しかしながら評論の文脈でもそうなってしまったことが問題なのです。1980年代の日本の美術を後から振り返ったとき、1970年代のポストもの派の続きでしかないという史観がまかり通るようになりました*5a12

【初版ママ】The rage of postmodernism known as new wave which swept across many cultures in the world in the early 1980s also swept across Japan. But in the context of art, this rage was suppressed to make it an insignificant trend within the prevailing world of contemporary art, but the outside in the field of illustrations as well as others saw a rage more heated than that of the art scene in the United States and Europe*5a1. The latter has been ignored in the usual Japanese art history, but it will be seen as belonging in the art history in this book.
*5a2 *5a3 *5a4 *5a5 *5a6 *5a7 *5a8

【初版ママ】Postmodernism was a sort of antimodernism. Progressive ideology and avant-gardism which used the sense of never seen (jamais vu) as its thesis were consigned to oblivion and retro tendencies which affirms the sense of something seen before (deja vu) started to spread and advocated trans-avant-gardism. In addition, the annulment of hierarchy was called forth and the border between high culture and subculture was blurred. The idea of dichotomy was shunned and doubt was cast upon the notions of the subject, industriousism, and male-centric fundamentalism. Annulment of genre and history was also conceived and there was more focus on sensibility over reason. Amateurism became rampant, resulting in the emergence of many young "expressionist" artists, and with the generational change, the break with previous era became apparent. In Japan, the popularity of "Nyu-Aka," which is the abbreviated form of "New Academism" in Japanese, was driving these tendencies further and supporting such trends.

【初版ママ】At this point, the Cold War was still continuing, but all around the world, there must have been a shared sense of change which was about to happen as was seen later with the collapse of the Berlin Wall. The Thatcher administration in the U.K. was inaugurated in 1979, the Reagan administration in the U.S. in 1981, and Japan's Nakasone administration was inaugurated in 1982, and all of them came out with policies based on new liberalism. In Japan, the Seibu Distribution Group (later to be known as Saison Group) launched their cultural support program in the mid-1970s. The museums under their umbrella actively purchased and introduced contemporary artworks from within and abroad, the urban shopping complex Parco disseminated subcultures and youth cultures, and led the "era of advertisement" with their new method of image advertising instead of merchandise advertising. The advertisement campaign by Itoi Shigesato such as "Jibun, Shinhakken (Myself, A New Discovery)" "Fushigi, Daisuki (Wonder, My Very Favorite)" and "Oishii Seikatsu (Delicious Life)" especially stirred a feeling of affirmation for the mundane, helped by enlightenment through consumption, and put the peculiar feeling of a closed era during the Cold War to the past.

【初版ママ】Postmodernism was theoretically supposed to give rise to diversity and monotony due to lack of disciplines, but this did not happen until after around 1995. There was a bias leaning towards expressionism in the beginning of the 1980s and after around 1985, this bias leaned toward anti-art. In other words, the trans-avant-gardism of the early 1980s also had an element of "avant-gardism called trans-avant-gardism" and subculture had an element of "high culture called subculture" whereas postmodernism had and element of "modernism called postmodernism". In the world of art, Japanese artists of the 1980s who were sensitive to the times moved outside of the world of art by casting aside the name of art, unlike the situation after around 1995 when illustrations were beginning to be produced with sensibility under the name of art. This must have overturned the premise of Hori Kosai's word "If we are to be called artists, then that is our battlefield." Moreover, this must have given a blow to Minemura Toshiaki's historical view of "from Mono-ha to Post Mono-ha" in which he tried to see a continuity in Japanese art history. But there were also artists who chose not to go outside and stayed inside, and critics who regarded the craze of those who went outside as having nothing to do with them were able to ignore their presence. When looking back at Japanese art in the 1980s, an attitude of deplorement over the fact that it was merely a fruitless extension of Post Mono-ha became acceptable.

【註確定】

*5a1
「反イラスト」の語は、私が1989年に著書『近代美術史テキスト 印象派からポスト・ヘタうま・イラストレーションまで』(トムズボックス)で初めて用いました。5c参照。
【和文改変、英文初版ママ】The illustrations that came about during this era were pure visual expression which could be called "anti-illustration" and were not necessarily commercial art in which they were produced according to demands. See 5c.

*5a2
以下はポストモダンとポストモダニズムに対する私の理解です(厳密なものではありません)。神権も王権も失われた市民革命後の西欧で誕生したものがモダニズムです。それは神権や王権という外からの規範を失ったことによって自身の内に規範を求めたため、自己批判的に自律することを余儀なくされました。さて、非ラテン世界におけるロマン主義や、象徴主義、シュルレアリスムといった数々の反モダニズムは、繰り返し立ち現れては結局モダニズムに回収されていきました。その理由はモダニズム自体が、前述の理由で自己批判性を兼ね備えていたからです。つまり「反」を唱えたり「イズム」を唱えたりしたとたん、それはモダニズムの属性だったというわけです。然るに、そこから逃れるためには反モダニズムという「反」でも「イズム」でもなく、「モダンの後」の意味でしかない「ポストモダン」の語が採用されました。おそらくこれは、脱構築やポスト構造主義的な作戦でもあったのでしょう。ところが実際面において1980年以降に現象したものは、イズムとしてのポストモダニズムすなわち新たな反モダニズム(というモダニズム)でした。このポストモダニズムは、1980年代前半のニューウェーブ(という表現主義的なもの)として最初顕れ、次に1980年代後半以降のシミュレーショニズム(という反芸術的なもの)として顕現したと私は考えます。*4a3、*8d6、*8d10参照。
【和文大幅改変(意図は変わらず)、英文初版ママ】In the Europe, antimodernist movement such as symbolism and surrealism came about repeatedly but were always withdrawn by Modernism in the end. In order to escape this situation, the word postmodernism was used only to mean "after modern" and not even an "ism" of antimodernism. But in the end, postmodernism became an "ism" and a new antimodernism. With regards to philosophy, deconstructivist theory and post-structuralism were referred to. Postmodernism in this sense not only refers to the Neo-Expressionism of the early 1980s but also all of the current thoughts after it went through simulationism from around 1990. See 5d.

*5a3
サブカルチャーの語義は国や時代により一定しませんが、ここではハイカルチャーの対語程度の意味で用います。
【和文確定、英訳可】

*5a4
「無名の十代、二十代の若者たちが無数に存在している事実を知らなければならない。(中略)アトリエの天井と言わず床、壁、新聞すべてに描きまくっているかれは、とにかく絵を描くことが楽しい、という。(中略)ある者は、コカイン中毒になりながら、またある者は、寒さと飢えに震えながら、ひたすら絵を描いているのである。まるで、自分たちを救ってくれる唯一の宗教でも見つけたかのように……」(伊藤順二「社会現象としてのニュー・ペインティング」『美術手帖』1983年1月号、82-91ページ)。*5b9、*8c7参照。
【和文確定、英訳可】

*5a5
ニュー・アカデミズムとその後の言論界と、美術界との関係をいくつか記しておきます。まず、1980年代の日本の美術がうまく歴史化できていない理由の一つとして、台頭したニュー・アカデミズムの論客たちによって当時の美術批評家たちの言説が相対化され(弱められ)てしまったことが指摘されています(北澤憲昭、2008年4月19日「現場」研究会討議記録、http://genbaken.com/genbaken/minutes0804.html、2014年10月14日に訪問)。また、浅田彰が1980年代当時からその後も一貫して、岡崎乾二郎を擁護する立場である(ように見える)こと。浅田彰の次代の論客と期待されて登場したのが、1998年に著書第1作『存在論的、郵便的-ジャック・デリダについて』(新潮社)を上梓した東浩紀だったこと。2000年直前に始動した村上隆のスーパーフラットが、東浩紀を巻き込む形で展開されたこと。2008年の黒瀬陽平の登場には公募論文査読の形で東浩紀が関わり、2010年にはGEISAI大学出張版を介して村上隆も絡んだこと。*7e5参照。
【和文確定、英訳可】

*5a6
イメージ広告の出現もイラストレーターの作家化に寄与しました。商品広告では商品が先にありそれをイラストレーションに起こすのでしたが、イメージ広告では絵ないし作家性が先にありそれを広告に使用しました。中原佑介はこの時代のイラストレーションを、「『形態は機能に従う』という有名な言葉をひっくり返して、『機能は形態に従う』、あるいは『機能はイラストレーションに従う』」と論じました(「グラフィックパワー展」カタログ、川崎市民ミュージアム、1989年)。*5c2参照。
【和文確定、英訳可】

*5a7
5d参照。
See 5d.

*5a8
前衛とは未知の地平に踏み出すことですが、未知の地平などどこにも無いという閉塞感がありました。一方、脱前衛ならば既知の地平で遊べるわけです。すると、「『既知の地平で遊ぶ』という未知の地平」が新たに出現したように当時感じられ、そこに踏み出すということが当時起きました。それがここでの「脱前衛という名の前衛」です。ちなみに、広義のモダニズムと広義の前衛を同一視する立場からは、ポストモダニズムと脱前衛はほとんど同義ということになります。また、脱前衛はトランス・アヴァンギャルディアの訳語で、トランス・アヴァンギャルディアとはイタリアの新表現主義のことであるという側面もあります。ついでながらドイツのそれはノイエ・エクスプレッショニズム(新表現主義)、アメリカのそれはニュー・ペインティング(新しい絵画)、フランスのそれはフィギュラシオン・リーブル(自由具象派)、さらには日本のそれは「ヘタうま」とするのが私の立場です(ここに「ヘタうま」を並べるという主張は谷川晃一も早くから行っています)。*2b1、*5b2参照。
【和文確定、英訳可】

*5a9
未視感とは見覚えがないという感覚ですが、見覚えがないものなどどこにも無いという閉塞感がありました。一方、既視感の容認ならば見覚え感覚(レトロ感)を楽しめるわけです。すると、「『見覚え感覚を楽しむ』という見覚えがないもの」が新たに出現したように当時感じられ、その追求が当時行われました。それがここでの「既視感という名の未視感」です。ハイカルチャーの高級性は論壇からの称揚により本来担保されるべきですが、そうなってはいない閉塞感がありました。一方、サブカルチャーならば当時の論壇(ニューアカ)から称揚されていたわけです。すると、「『論壇から称揚される』という高級性」がサブカルチャーの側に新たに出現したように当時感じられ、それへの敬意が当時生じました。それがここでの「サブカルチャーという名のハイカルチャー」です。モダニズムは新しくなければなりませんが、すべてやり尽くされたという閉塞感がありました。一方、ポストモダニズムならば新しくなくてよいわけです。すると、「『新しくなくてよい』ということが新しい」と当時感じられ、その追求が当時行われました。それがここでの「ポストモダニズムという名のモダニズム」です。
【和文確定、英訳可】

*5a10
美術とは視覚分野での芸術のための芸術の追求ですが、美術の内部では(制作を自らに禁じる等の)自粛による閉塞感がありました。一方、美術の外部ならば自由に芸術のための芸術が追求できるわけです。すると、「『芸術のための芸術の追求』という美術の内部そのもの」が外部の側に新たに出現したように当時感じられ、そこへの転身が当時起きました。それがここでの「外部という名の内部」です。実際、中村信夫の『少年アート』(スケール、1986年)を読んで違和感を覚えた都築潤や私は、芸術のための芸術を追求するためにこそ、美術家ではなくイラストレーターとなる道を当時歩みました。
【和文確定、英訳可】

*5a11
4d参照。
See 4d.

*5a12
「特に80年頃から85年くらいまでのニューウェーヴの活動は当時新聞などのメディアで取り上げられることが殆どなく、作品はおろか写真や資料すら残っているものは少ない。そのためこれまでは、大きな流れの中に完全に埋没し、まるで『何もなかった』かのようにされてきた」(坂上しのぶ「80年代考-80年代ニューウェーヴをめぐって」『所沢ビエンナーレ・プレ美術展 引込線』カタログ、2008年、所沢ビエンナーレ実行委員会、42ページ)。*4d3、5b、*6b3参照。
【和文確定、英訳可】


本頁は作業中です。ご注意ください。

履歴(含自分用メモ)

2012-08-30
- 本頁作成。

2014-08-18
- 5a1 に、イラストレーションが美術から見ると揶揄語であるということを簡単に書き、7a2参照と入れるべし。

2014-08-24
- 1980年9月、第1回日本グラフィック展開幕 に相当する文言を第一段落の「後者」の前に挿入すべし。<済20140912
- 5a1を強化すべし
- 「脱前衛という名の前衛」については、その後、あるシンポジウムであの当時は前衛だったという話題が出ていたことを述べる。5a5でもよいかもしれない。

2014-09-12
- 5a5挿入。
- 本文第一段落改変。旧:1980年代初頭に世界の諸文化を席捲し、ニューウェーブと呼ばれたポストモダニズムの熱狂は、日本においても激発しました。ただし美術においては、内部すなわち既成の現代美術界では矮小な動向へと抑え込まれ、外部すなわち近隣のイラストレーション等の分野で欧米の美術界以上の過熱を見ました*5a1。後者は従来の日本美術史では無視されていましたが*5a2、本書では正史として扱います。

20141005【和文本文決定】
- 第一段落は途中から新訳で、「内部」の扱いが初版と改訂版では変わるので(内部の新動向を改訂版では初版時よりは持ち上げます)、それに準拠した書き方に変えてあります。第二・第三段落は初版とほとんど変わっていません。第四段落は途中から初版とずれてきています。第五段落は新訳です。
20141014【和文本文決定後、表記改変】【和文本文決定後、注記箇所変更】【和文注記決定】
- 表記改変:呼ばれうる→呼ばれ得る …英訳に影響なしと判断
- 注記箇所変更:旧5a7削除、新5a9追加 …英訳に影響なしと判断
■初校時改変(注記*5a1参照先)[2英文に影響]:用いました。5c参照。>>用いました。反イラスト→5c
■初校時改変(注記*5a2参照先)[2英文に影響]:考えます。*4a3、*8d6、*8d10参照。>>考えます。モダニズム→*4a3。芸術の自律性と多様性→*8d6。芸術のための芸術と反芸術→*8d10
■初校時改変(注記*5a3参照先)[2英文に影響]:用います。>>用います。ハイカルチャーとサブカルチャー→*6b7
■初校時改変(注記*5a4参照先)[2英文に影響]:ページ)。*5b9、*8c7参照。>>ページ)。表現主義→*5b9*8c7
■初校時改変(注記*5a5参照先)[2英文に影響]:絡んだこと。*7e5参照。>>絡んだこと。浅田彰と岡崎乾二郎→*7e5
■初校時改変(注記*5a6参照先)[2英文に影響]:1989年)。*5c2参照。>>1989年)。イラストレーション→*5c2
■初校時改変(注記*5a7参照先)[2英文に影響]:5d参照。>>循環史観→5d
■初校時改変(注記*5a8参照先)[2英文に影響]:行っています)。*2b1、*5b2参照。>>行っています)。前衛→*2b1。80年代アヴァンギャルド→*5b2
■初校時改変(注記*5a10参照先)[2英文に影響]:歩みました。>>歩みました。イラストレーターの標榜→*6b10
■初校時改変(注記*5a11参照先)[2英文に影響]:4d参照。>>美共闘→4d
■初校時改変(注記*5a12参照先)[2英文に影響]:42ページ)。*4d3、5b、*6b3参照。>>42ページ)。ポストもの派→*4d3。80年代美術→5b*6b3