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白黒こそ色彩  中ザワヒデキ

 モノクロと白黒はほぼ同義に使われることもあるが、私の持論に照らせばかなり異なるものである。モノクロ(ーム・カラー)は文字通り単色ということで、その色としては赤や青であってもよいが、黒であってもよい。そして黒の場合であっても、それが「何に対する単色か」といえば、「無(色)」に対してなのである。モノクロ表現とは「無」の場に「有」としての単色を生成することだ。具体的には、Illustrator等ベクターCGのドローソフトでモノクロ表現した場合、プログラムの内部では「無の空間に有の単色のオブジェクトを生成した」という事態となっている。それゆえドローソフトの新規ウィンドーは、無の空間に対して開かれている。
 いっぽう白黒は、白と黒の二色である。ここでの白は無色としての白ではなく、(有)色としての白である。「無」の概念は存在せず、画面は「有」としての画素で満たされている。白黒表現とは画面を満たすすべての画素を、相異なる二色のいずれかに塗り分けることだ。具体的には、Photoshop等ビットマップCGのペイントソフトで白黒二値表現した場合、プログラムの内部では「各ドットの色属性を白か黒の二値いずれかに設定した」という事態となっている。それゆえペイントソフトの新規カンバスは、白ドットの集合体として作成されている。
 ルネッサンス以降の美術史は、形態を重視する派と色彩を重視する派の拮抗として語られる。形態派の美学は前述のベクターの考え方と共通し、色彩派の美学は前述のビットマップの考え方と共通する。ここから、形態画の最小の構成がモノクロで、色彩画の最小の構成が白黒であると推測できる。前者は理解しやすいが、後者は上記手続きを経ないと理解しにくいだろう。しかし、色彩画の具象画段階での究極である点描画家スーラが、画歴の初期に木炭での白黒表現に没頭していたことや、色彩画の抽象画段階での究極であるオプ・アートティストのヴァザルリやライリーが、画歴の初期にミニマル的な白黒表現に没頭していたことは、後者を物語る史実である。そう、「白黒こそ色彩」と言ってよい。
 色彩画の第三段階として「方法絵画」を提唱している私は、赤や青さらには白や黒といった視覚生理的な色のドットの代わりに、記号を論理的な色のドットと称して使用している。たとえば文字や碁石によるビットマップでは、作品の見かけは白黒となるが、意図としては色彩から生理を捨象し論理を抽象している。私はこれを、色彩のイデアだと考えている。

[アイデア誌294号'02-09(白黒特集)掲載原稿]


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