- - - - - - - 
 中ザワヒデ
 キ文献研究
 進行状況逐
 次報告
 - - - - - - - 

 

【留意事項】
本報告について中ザワヒデキは、事実誤認がさまざまなレベルで多々あることを了承の上で読んでいただく分 には公開しておく意義があるとし、公開している

第二期十一回 

二〇〇八年八月六日

文献
「『松澤宥論』論」『REAR』2007年 no.16 p#.294-301
「その後のバカCG 第1回」『イラストレーション』1995年9月号 p.126-129 p#.302-306
「その後のバカCG 第2回」『イラストレーション』1995年11月号 p.128-131 p#.307-310

「松澤宥論」論
|はじめに・・・
|(一)松澤芸術への接し方
|(ニ)松澤芸術の諸要素
|(三)松澤芸術のマッピング
|おわりに・・・

その後のバカCG -HISTORY OF BAKA CG- 第1回
|序
|第1章 バカCG以前
|第2章 バカCGの黎明期 〜中ザワヒデキ「大ボケツ展」〜
|第3章 国際バカCG連盟発足(!)

その後のバカCG -HISTORY OF BAKA CG- 第2回
|第4章 ヘタうま・テクノ・バカCG
|第5章 新表現主義とバカCG
|第6章 シミュレーショニズムとバカCG 〜その1〜

-----

中:今日は皆藤さん休みかな、八月の六日、「『松澤宥論』論」ですね。美学校は夏休みだけど来て作業か何かやってる人がいるんですね。

ひ:これを読んで聞きたかった事があったのですが、さっき見た2002年2月号の美術手帖のインタビューで長澤氏が同じ質問をしていて解決してしまった事があありました。それは、松澤宥がオブジェを消せといって、そこで言語が出てくるのはわかるんですけど、紙に書いてしまったらそれは物質じゃないかと初めに思ったんですよ僕は。オブジェは消えていない。

中:それは平間さんの問題でもありますよね。他の誰が気にするんだ(笑)

ひ:そこで長澤氏の質問は、文章が書かれた紙はオブジェと言えなくもない、矛盾を感じませんか?というもので、答えは、矛盾をもちろん感じています。テレパシーがあればいいのですが、無理だから紙等最小限のオブジェなら仕方が無いというもので、ああ諦めているんだと。テレパシーの”まだ”無理っていうのがなんか、、

中:いい感じですね、さすが答え方がわかってらっしゃいますね(笑)

ひ:ちなみにこのインタビューは過去の編集版で、この特集の為のものではないです。

中:長澤さんはチェッカーズの衣装を担当していた方です。コレクターでもある。360°で松澤宥のイベントをやる時も長澤さんがやています。松澤さんを囲む会とかです。

ひ:ビデオや録音物は残っているんですか?公式に。

中:長澤さんが撮ったものが残っていますが、あんまり公式ではないですね。岡崎珠子が制限を掛けていたところもあります。松澤宥は岡崎珠子画廊の作家です。

ひ:あ、小池さんは量子芸術宣言をオークションで落としたんですね!

こ:競り勝ちました。サイン入りです。

中:良かった良かった。競るのは良い事です(笑)

ひ:|初めに・・・ では、「たとえば、『異星人に向けた芸術』ちう発想じたい、にらめっこで歯をくいしばるシチュエーションと同様の滑稽がある。だが真面目に難解と身構えてしまうひとや、真顔でこれってウソでしょうと勘ぐる人が少なくない」とありますが、僕は後者の真面目に受け止めてしまう人を見た事がないし、僕はほぼ笑いの部分しか理解出来ない所もあります。

中:なるほどね。

ひ:真剣に見ると恐い感じですかね。

中:そんな恐くないけどね。

ひ:それはp'298の左の「むしろ純粋に現代科学の再任の知見に対し『おお!』と驚き面白がり楽しんでいたはずだ」というのと通じますが、こういうのを見ると落ち着く感じで、プサイの部屋が瀧口修造の命名だった恩義で部屋が捨てられなかったんじゃないかとか、妄想狂の困った私怨部屋みたいな文章とか。

中:こういう言い方している人はいないんじゃないかな、プサイの部屋に行って泣きましたとかそういうのばかりです、でも松澤さんもそういうのを喜んでそういう話をしたりするからね。特別な感じで話す人もいますが、特別なんだけれども、両面ちゃんと言わなければいけませんね。

ひ:カラー写真があって、白黒だと、おー(笑)という感じがあって、カラーだと困った人の部屋だなという感じが出ます。

中:カラーあるね、けどいつもはもっと暗い。写真とるときに明るく撮ったんだろうね。

は:限られた人しか入れない凄く特別な所と聞いた事もあるんですが、写真があるとそういうのもあんまり感じなくなります。

中:松澤さんがどれほどそうやっているかわからないけど、本人がすごく煙に巻く様な話し方が出来る人だから、プサイの部屋を見たいとか急にいわれても、今は駄目と言っているんです、みたいに、よくわからない理由で断られていた人もいるかもしれませんね。あとこれ家だからね、よっぽど行こうと思わないと行けません。いつでもウェルカムとかいう所じゃないからね。お家にお邪魔するという感じなのでそういうなりゆきが無いと難しいです。関係ない人がいきなり行っても無理だろうと思います。

ひ:あとこの美術手帖の記事は、このインタビューと、中ザワさんの記事しかないんですよね。となるとその他の松澤宥について書いてきた人たちの反発はありませんか?

中:あると思うよ。でもこれに関しては意外な程反応が無かった。これの直後に国立近代美術館でイベントがあって大勢来ていたんだけど誰からも反応がなかったですね、これはだいたい2002年2月号だからって松澤さんの方が騒いで実現したもので、そのときの編集者の楠見さんが、松澤さんがピンとこない人で、特集もこんな感じになってしまいました。僕としては文章の後ろに薄く写真が乗せられてて読みにくくなってしまったというイメージがあります。

ひ:REARの反応は?

中:REARの方が反応ありますね、松井茂さんが教えてくれたんだけど、佐々木敦さんがこれを読んだとブログに書いてくれいたよ、と言っていた。あと松井さん自身はBTのこれはわからないんじゃないかという感じで、僕がキザに書きすぎたんだと思う。松井さん自身は評価してくれて、松澤宥のために必要なテキストだといってくれました、僕としては松澤宥に関してはこの文章を書いて、やることはやったかなと言う感じです。それを松井さんに言ったら、中ザワさんもやっと松澤宥を卒業できて良かったねといっていました(笑)

ひ:卒業という感じですか?

中:僕の中では盛り上がりはおわりました(笑)小池さんちょっと読んでみて。

こ:人類はこの地球上で生きていてよいのか、生きている価値あり、や弱者の命は大錯誤のなかでもてあそばれたこの恥ずべき劣勢の故に人類は異星人達のエサとなって食われたほうが良いのか、だが人類もここまでやったということも あるハーシェルは宇宙の姿を発見した バッハはブランデンブルク協奏曲を残した イッテンは超紐理論を解明に挑む、だが80年内人類滅亡

中:80年内人類滅亡のシリーズやってた頃ですね。だから最後はそうなるのはいいんだけど、人類は異星人に食われてしまえとかっていうのはよく異星人に向けた芸術のときでもやってて、そういうのはまさしく「にらめっこで笑うまいと、歯を食いしばるシチュエーションと同様の滑稽」がある。あとね、松澤さん、エイリアン見たんだなとかね(笑)

は:好きそうだなぁ(笑)

中:これにも書いたけど、結構流行とか知ってるんだよ。

ひ:あと中ザワさんのモダニズムの図では松澤さんは第二番目のシュールレアリズムの所に入るんですよね。

中:反芸術からシュールレアリズムへ移行する辺りです。オブジェを消せっていうのは反芸術と凄く近いんですよ。ダダね、松澤さんをダダと捉えるのか、シュールレアリスムと捉えるのかがいつも問題になっていくる。

ひ:p#300の「会場に来ていた砂盃富男から猛反発を受けたのだった」というのはそういう事ですか?

中:そうです。みんなシュールレアリストなのね、砂盃さんのコレクション展とか松濤美術館でやってましたね。葉書絵画もあったし、絵もあった。小さいやつ。

は:標語みたいな、何年後に海底だったみたいなのもありました。

中:この頃は反発する程元気でしたね。僕は2006年に高崎で見ました。

ひ:あと小倉正史にも大声で面白くない!と怒鳴られたと書いてありますが。

中:そうそう松澤宥抜きで僕、小倉さん、伊丹さんで話してて、僕が持論を話していたら面白くないといって、岡部あおみさんにも反感を持っているらしくて、僕に、岡部あおみが言っている事は面白いですか?と言ったので、面白いと答えたら、面白くない!と言って、じゃあ聞くなよと思いましたけど(笑)怒られましたね。その後鍋田庸雄さんが、あの時点でよくぞ耐えて引っ込んだと私にお疲れさま的なことを伝えたのち、じつはそのダダかシュルレアリスムかという二項対立は松澤の美学校の最終芸術工房でもつねに問題となり、議論の核心だったと言っていました。

ひ:解釈の違いからいきなり怒り出すというのがちょっとわからないんですが。

中:ダダかシュルレアリスムか、大乗仏教か小乗仏教か、あとそれから僕はコンセプチュアルアートとしてちゃんと捉えようと。でそれはコスースの物ではあるけれども、コスースと似ている所もある。それはプラトンのイデア論、プラトン自身が芸術を禁止している事、それと松澤宥のオブジェを消せっていうのも繋がるはずなんだけれども、そういう話をしてたら、全然違う!と怒られた。理論的に解釈出来ると僕は言っていて、理論的に解釈出来ないから素晴らしいんだと言っているのがシュルレアルストね。だから理論的に解釈できるなんていうのは違うんだ!という怒りはあると思いますよ。ポストモダニズムの側からのモダニズムへの怒りと同じ。ポストモダニズムの中でモダニズム的な事を言うと総反発を受ける。それと同じですね。で僕は松澤宥はモダニストだと言っていて、全然違う!という事になるわけです。人類の未来はここにしかないんだ、みたいに思っているのがシュルレアリスト。理屈とか超えた所。でも松澤さんもそういう事を言っている。地上の理論はダメとかね(笑)だからその辺の所は難しいんだけれども、真の理論があるはずだとかいうのならそれはモダニズムじゃないかというのが僕の立場です。

は:これはREARに載せた文章でざっと読んでみて、やっぱりこういう文章書くのは中ザワさん位ですよね。p#295に「松澤宥に必要なのは、敬して愛することでも、敬して遠ざけることでもどちらでもない。地に着いた一美術家として彼を論じ、平易な語り口でその作品を分析的に論じることでしかないはずだ。瀧口修造にはじまる神秘主義的な賛辞は、もう十分である。そうそう、その意味では、もの派とともに松澤の芸術を観念的な神秘主義であるとして斥けた、当時の彦坂尚嘉や堀浩哉の態度はまっとうだったのではないか。だがそれは美術家の態度としてでである。言説としても誰かがそれをやるべきなのだ」と言っています。

中:あんまりいませんね、僕も美術家だしね、あなた方に託されています。でもみんな作家だからだめか(笑)

ひ:このためにやめれば良いんですよ(笑)松澤宥が受け手を選ばないように詩を記号にしたのに、結局現実には受け手を選んでしまったというのは、ただ単に知名度が低いという事なのか、それとも広がらない様な原因があるんでしょうか。

中:例えば美術手帖に載っている言明があるじゃない、これは受け手を選んじゃうよねやっぱり(笑)日本語が読めないとかそういう話じゃないよね。でもそこでピンと来る人もいる。詩を書いてる人からみたら、松澤宥が詩を書いていて日本人にしか伝わらないからといって記号を使い始めた時点で拒むでしょ(笑)そこで記号でも大丈夫な詩という所で読み手が少なくなりますね。

ひ:でも結局誰にも通じなくなってしまいますよね?

中:いや、信仰している人には説明する前から通じている(笑)それも問題なんだよ。でもこれの面白さはわかりますよね、量子芸術宣言を買ってる人もいるし。

は:中ザワさんが松澤宥に興味を持っている事が意外に思う人もいますね。

中:大勢います。でも方法以降はわからないけど、それ以前のバカCGと松澤宥がものすごいギャップがある。誰にもわからないらしい(笑)ぼくがきちんと意識したのは千葉茂夫の「現代美術逸脱史」にはがき絵画が載っていて、松澤宥と高松次郎をもっと知りたいと思いながら読んだ。埼玉近美でやった70年代展では高松次郎が一番面白かった。どのもの派の作品よりも。

 あとここに「たとえばコスースや河原温が勝ち組だとすれば松澤は負け組なのだ」ってあるけど、この勝ち負けはわからないと言われたことがあります。

は:その言い方が嫌いだって人はいますよね。

中:これはわざと逆撫でしている所がありますね、一般的に勝ち組負け組って言い方は好かれてないけど、わざと使ってみる(笑)

は:「美術家が物質を捨てたというこの事件は、彼の経歴における最初の事件、すなわち詩人だったにもかかわらず文字を捨てて記号に移行した事件と、同型かつ逆向きである。このことの意味についても拙稿で書きえなかったのは、河原温が『浴室』から『日付』に移行した経緯、荒川修作が『死体』から『意味のメカニズム』に移行した経緯などとの比較検討である。ちなみに蛇足ながら、私自身の『バカCG』から方法への移行だって多大な動機と必然を有している。なぜならそれは『移行』というよりも『自己否定』だからである。」

中:たまにこういう人はいますね、町田町蔵とかね。美術の世界ではこの辺に人達です。朔太郎とかも変わってます。モンドリアンもそうですね。風景からキュビズム的展開を経て抽象になっていく。その前もありますね。

ひ:中ザワさんの文章を読んでいて、松澤宥にかわいいという印象をもったんですが、、、

中:かわいらしさはありますよ。そう思っています。

は:撮影とかするのが難しいという話をさっきしてましたが、

中:撮影というよりは、世に出すのが難しいんですね。今は大丈夫かもしれません。私的にとるのはかまわなかったと思います。JATで松澤宥号を出したいと岡崎球子に言った事がありますが、断られました。

 話は変わりますがこの文章で、REARのデザインは誰がやっていたかわかりませんが、「『松澤宥論』論」のカギ括弧の中と外は違う書体だった。で、同じ書体にして下さいと言って同じにしてもらった事がります。あとp#295の上段の一行空いているのはチェックミスです。原稿の段階では空いていません。

は:この文章はとてもわかりやすかったです。p#298の「古谷俊彦が指摘した『ほんらいの文学者の仕事』に対しては、私は次のように考えている。芸術が上位概念で、下位概念として文学、美術、音楽などがあるのだ。」

中:その上位概念の芸術をやるためにも方法はあったんです。この辺で休憩しましょう。

---

中:次はイラストレーションですね。またガロと似た文体になっています。この10年でずいぶん文体が変わりました。これは95年9月号の連載で「その後のバカCG」です。

ひ:他の文章と同じ内容のものもありますね。

中:そう。それによってわかる事もあります(笑)。「その後のバカCG」は途中から「バカCGからマルチメまで」ってい題に変わるんですが、それによって同じ連載だと認識されない事態が起きて、都築潤さんがイラストレーション編集部からこの連載を取り寄せた時に、編集部の人も違うものだと思って「その後のバカCG」しか送られて来なかったらしい。あと東京都現代美術館のカタログにも自筆文献として載っているんですが、「全6回」とかになっていて、後半が無い事にされています。だから名前を変えないほうが良いかもしれません。では行きましょうか。

こ:CGが昔はありがたがられていた事態僕は知りませんでした。

中:そうか、それがあってのバカCGです。今だったら何でしょうね、初期のシンセサイザーがそういう事だったんですよ、富田勲がシンセサイザー輸入とかいって、兵器と勘違いされたとかあって、ドビュッシーをシンセサイザーで弾いてみたりして、これかぁみたいなね。

ひ:後から思うとそっちの方がバカっぽくて面白かったりします。

中:そうですね、でもそれは相当後になってからの話ですね。

は:筑波博の時にCGとか立体映像とかもてはやされていました。

中:筑波もそうだね、大阪万博の方がずっとそうでした。松本俊夫はまだビデオだったかな?幸村真佐男とかですね。

こ:頭が良さそうな感じですかね。どういう感じでしょうか。

中:美術手帖の90年5月号位がそんな感じでした。あるかな?

は:河口洋一郎とかですね。

中:そうだね、教授って感じ(笑)あ、美術手帖ありましたね。これはちょっと違うかな(笑)これはニューエイジっぽいですね。

こ:p#301の「ハイテクアート」の文脈の中の、「ハードをインスタレーション的に展示する」というのがどういう事なのかわからなかったんですけど。

中:ICCという感じなんですがイメージできますか?ええとコンピューターグラフィックスじゃなくてもいいけどブラウン管の後ろの配線まで展示の一部としてみせてる感じです。

は:確かに頭が良さそうな感じはします。

中:先にでた河口洋一郎とか、藤幡正樹とか。大学の教授になっている人も多いですね、そのはしりは実験工房の山口勝弘です。山口勝弘が教授に収まっている。そういう感じです。

こ:「大ボケツ展」の説明で、「時代遅れのテクノ」とありますが、その「テクノ」の意味がわかりません。

中:テクノだけど、ここにはきちんと書かれていませんが、2つ意味があって、初めはずっとテクノポップの事だった。クラフトワークがあって、それに続いたYMOとかね、それは78年、75年くらいからあったのかな?クラフトワーク以降です。チープな感じはあるんだけれども、おばあさんが改札でまごまごしてる感じとかはテクノポップに対する新たな解釈。そういうテクノポップの形が一つあって、それは80年代前半にダサくなってくる。それはエレポップがダサかった。エレポップっていうのはシンセサイザーを使って暖かい音楽が出来るんだよっていう様な音楽。クラフトワークの様な冷たさを持った音楽、じゃなくて暖かさを持った音楽が出てきて、テクノポップは85年位で一旦無くなった。YMOも80年代後半に聞かなくなった。ところが90年位にアシッドサイケとかハウスが出てきて、その中でピンクフロイドを扱う音楽とかが出てきた。その中でデトロイドテクノとか、それまでのテクノとは異質なものが出てきた。BPMも違うしね。それで踊れたりする。それもテクノって言われてたけど、テクノとは違うとも言われて混乱したりした(笑)その時にテクノポップリバイバルも起こった。テクノポップDJパーティーっていうイベントがあったりしてね。で90年直前位に銀星倶楽部で別冊テクノポップっていうのが出て、その時は「なんで今頃テクノポップは死後なのに」と思った。僕は自分がテクノだっていう自覚が無かったけどそれを立ち読みしている時にクラフトワークとか色々あって、載ってるやつは僕は全部好きでその時に「俺はテクノだったんだ!」って衝撃を受けました。なのでテクノっていうのは音楽の話ではテクノポップの話です。あとはテクノロジーを使うっていうのをポップにした感じでテクノって使われるイメージがあります、テクノ文化みたいに。音楽を視野に入れながらテクノロジー全般の発達と共に云々という事があります。テクノという言い方は英語では音楽以外には使わないと思います。

こ:コンピューターを使えばテクノなんですか?

中:テクノポップの話で言えばシンセサイザーです。シンセサイザーはテクノでは無いから。それまではプログレッシブと言っている連中もプログレとかいいながら使って無かった。ドイツのデュッセルドルフCAN辺りは使っていた。イギリスのプログレの人達は使ってなかったですね。シンセがテクノかっていう話だと、そのうちどんなバンドもシンセサイザーを取り入れ始めた。クイーンはアルバムでシンセサイザー反対の立場を表明したりしてたのが方向転換して、シンセサイザーを取り入れた。だから既存のバンドにしたらシンセサイザーは大きな問題でした。今だったら「僕はe-mailは使わない」とか言ってた人がいきなり使い始めたりとかいろいろあります。テクノとはシンセサイザーを使う事だとか言ったりもしますね。テクノポップに関してはね。

こ:中ザワさんは音楽の表現とヴィジュアルの表現でテクノという表現を使っていて、それが繋がらない感じはします。

中:それはテクノという思想的な部分まで含めて僕がテクノと言っているからであって、例えばプラスチックスなんかはテクノバンドの中でも典型的なものではあるけど、何が典型的かといえばシンセがピコピコしている。ピコピコした感じをこれこそ素晴らしいといってそれだけで音楽を作ろうと徹底している。それがテクノな感覚。パソコンだけで何でも出来るのだという感じで僕がやる場合に、それはテクノな気分に裏打ちされています。プラスチックスが出た頃はパソコンはなかった、でもイラストでデジタル感を一生懸命出していました。アナログでかっちりしたものをね。

こ:ドット絵をタイル貼りした絵がありますが、これは実際にタイルを張ったわけではないんですよね?

中:ちょっと図版が見づらいですね。これは最大でA4しかプリントできないプリンターしかなくて、でも100号の作品を出力したい時に、そのデータの一部を切ってプリントして、次をプリントしてって続けて行く。それをタイル貼りと読んでいました。

こ:絵が途中で切れてて繋げているんですね。

中:そうです。「タイル貼る」というのは不可視関数試論にありましたね。

は:Bunkamuraで展示していましたね。(*1)

中:そうです。あれこそタイル貼りです。

は:あれは当時のままでしたね。

中:僕としてはデータもインターネット上で発表したいのですがさまざまな理由で出来ていません。白黒はいいけど、カラーでプリントアウトすると当時のチープなプリンターの方が発色が良かったり。その後のプリンターの進化は全部写真に合わせてあるから、写真が綺麗にでてもバカCGには汚く出てきます。そこもクリアー出来ていない。なので今のプリンターではうまく出来なかったりします。モノクロなら良いんですけどね。今後出てくるけど無制限にプリントアウトできるのがCGの本来の良さなので、矛盾するんですね、その辺が今の所バカCG時代のものはコマーシャルギャラリーで僕が仕事をするに当たって解決出来ていない状態です。文化村でも当時のものしか展示していません。

こ:バカCGについて、当時のCGのレベルとしてはどんな感じだったのでしょうか。

中:テレビレベルですね、ハイビジョン。作者が誰っていうのはせいぜい河口洋一郎とかですね、それ以外はNHKプロダクションとかそのレベルです。ちなみに図版006,7,8,9はこの連載に合わせて書き下ろした自分の絵の模写です。

は:そこまで徹底してるんですね(笑)

中:というかこの時代のデータを持ってなかった。これは PC88のデータで5インチのフロッピーに入ってて本体がなかった。それでこまってたんだけど取りあえず模写した。それはおそらく近代美術史テキストに合わせてあります。こんな所でしょうか。

 今日第二回まで行きましょうか、どうしましょう、行きましょうか。

は:では第二回のヘタウマ・テクノ・バカCGという事で第一回からの続きで第4章です。ここには初めに

「『バカCGだ!』と人から言われた瞬間にいろいろな事が明らかになった思いをした中ザワは、伊藤ガビンの『国際バカCG連盟発足』を読んで、自身が大ボケツ展で試みた事をバカCGの語で語る事が可能であるとすっかり確信して行くようになりました。最初は気兼ねもあり、『バカ・イメージ』という語を使ったり『最近私もハマっているバカCGの概念』などと控えめに述べていたのですが、はっきりバカCGの語を全面に打ち出すようになったのは『デザインの現場』誌90年12月号に『バカCGのススメ』というテキストを発表してからです。同テキストでその語が伊藤に由来する事を断った後、中ザワが新しく述べている事は『ヘタウマ・テクノ・バカCG』という言い回しです。つまりバカCGをヘタうまリヴァイヴァルかつテクノ・リヴァイヴァルと規定して、その2本を柱にバカCGを位置づけようとしているのです。大ボケツ展ですでに考えられていたヘタうまとテクノのリヴァイヴァルが、バカCGの語と関連して、初めて文章化されたわけでした。」

とあります。

中:しかし石井さんの論文のなかではこう書いてあるけど実際はどうなのかわからないぞと書いてあった(笑)95年になって90年の展覧会にはこんな意味があったと後から言うのは後付けの可能性もあると書いてあった。

は:その後すぐに「さらに一点モノのオリジナルが無い事のありがたさについての言及と、美術史が、印象派という一種のヘタうまから始まるという自説に鑑み、『CG史はバカCGから始まる』などと解説されています」という件を読んで、中ザワさんは今一点モノを書いてらっしゃるじゃないですか、ずいぶん変わったわけですよね。

中:一点モノのオリジナルに対する否定は方法が始まってからも持ってましたよ、具体的に切り替わったのは2006年からの本格絵画になってからですね、僕は単に処世術として以上に意味はないと思っています。

 骨董としてのバカCGっていうのが五千字にあったと思うけど、骨董的価値と美的価値を分離したくて、美的価値だけ考えたいときは骨董的価値はじゃまなんです。っていうのは方法主義の時も考えていて、一点もののオリジナルじゃない方が、骨董的価値とは別の美的価値について論じられる事によってありがたいと。今も理論的にはそう思っています。今一点ものをやっている灰色絵画は一点しか出力しないとかっていうのは実際に値段がついてどこに入ったとかも必要悪なんだと。処世術的なもので、その必要悪のためには一点だというふうにしないと美術館は買おうともしないだろうと、そういうような事でしかなくて、それは理論から来ているのではなくて、処世の術としてやっているだけです。

は:考えが変わったという訳ではないんですね。

中:やり方は変わったけど考えは変わってないです。でも一点もののオリジナルがない事のありがたさが書かれているのは「バカCGの進め」の中です。「デザインの現場」の連載の中の。ちょっと読みにくい文体ですけどね。

は:「100号の大作を3分で描いたっていいじゃないか!」というのは、、、

中:大竹伸朗だと思う。それは確認取れていません。2005年7月号でも描いています。けど大竹さんに聞いても確認とれなかったんだけど。

は:「バカCGのススメ」のために描き下ろした図解には「『構想2秒、制作時間2分』(by伊藤)を目指したCG」とありますが。。。

中:実際にはもっとかかっています(笑)

は:中ザワさんは表をよく書いていますが、いつ頃から書いているんでしょうか?

中:表を書く事によって、三次元ビットマップがない事に気付いたりします。

は:新表現主義について書いていますが、パンクミュージックは新表現主義に繋がるものとして理解してもよろしいでしょうか。

中:パンクは音楽だけど被る所がありますよ。もういなくなったけど、ベルリンのニューペインティングでザロメっていう人がいて、パンクバンドやったりしている。ベルリンで。どちらもそれ以前の小難しいものに対しての反動なんですね。

は:ここに「雑誌の片隅にギターコードが3つだけ図解してあって、さあこれでバンドえお作れとかいてあったりしたそうですが」ってありますがこれでできるんだ(笑)

中:パンクならできる(笑)プログレだとできない。この話は久住さんが言ってた話かな。美術手帳編集者のね。

は:都築さんとの対談でも話していましたがヘタうまと新表現主義との繋がりについて

中:その辺は現代美術史日本編にかいてあるかな。イラストにもニューペインティングの波が押し寄せてきたんだけど、でもその前からなんとなくそういう動きはあった。でそれが独自にあったのが湯村輝彦。当時のイラストレーションrスーパーリアルイラストレーションが全盛だった時。まるで写真の様なものね、それを和田誠に「湯村君の絵はヘタうまいねぇ」と言われた事があって、それを自分で言い始めた。それは欧米の新表現主義よりも早いのね。で湯村輝彦の周りにぞくぞくとへんなのが集まって来たみたいなね、スージー甘金とか。

は:当時のイラストレーションの文脈のなかに日本では新表現主義が出てきたと書いていますが。

中:こう言っているのは僕だけです。持論です。

は:でもたまに見ますけど。。。

中:どうやらそうらしいね。都築さんも言っていた。そうだとしたらそれは僕の功績(笑)やっと社会が僕を認めてくれた!いやわからないけどね。少なくとも千葉茂夫さんの美術史しかなかった頃は、千葉さんはイラストを知らないし峰村さんも知らない。でイラストに目を向けたのは僕の世代です。僕の世代っていうのは具体的に言えば椹木野衣です。ある意味僕と同じように思っているんじゃないかな、でも湯村さんとつなげているのは僕の近代美術史テキストです。近代美術史テキストは全然違う動機で書き始めてて、フォンタナのカットがしたいだけで書き始めたんですけど(笑)それが書いている内にこれも書かなきゃあれも書かなきゃと書いている内に内容が詰まってきて、その中に自説として、イラストレーション史を美術史の文脈に繋げて語るって言う事で、そのときに日本のヘタうまは世界同時多発的に起きたニューペインティング現象の内の一つである、しかしイラストの文脈で起きたので少し変わっている。そういいう事を言いたくて書いたものではある。でも当時そういう風に読んだ人はいなかったですね、形式がおもしろいと言った人はいたけどね、西洋画人列伝とか書くような仕事が来たりとか、仕事がたくさん来たり面白がられたりはしたんだけど、僕のその美術史上に日本のイラストを持ってくるみたいな事は誰もそこを指摘してくれなかった。やっと2000年くらいに椹木さんと話す事があって、その時に椹木さんが日本ゼロ年をやった時にその事をしゃべって、その後2005年の滋賀県立近代美術館の展示に椹木さんがカタログにテキストを書いていて、驚いた事に出品作家について何もかいていない(笑)で僕と飴屋さんについて書いていて、「中ザワヒデキという時代」という章が設けられていてそこに書いてあった。コピーの時代だ。でそれを面白く読んでくれた美術関係者は結構いて、それが出るまでは中ザワがこんな事をやっていたというのは知らない人ばかりで、やっぱり椹木さんはありがたいですよ。そこかい落ちは(笑)いやそこじゃなくて、そのコピーの時代のカタログのテキストによって、ある意味そのことが認知される事にはなったと思います。それでそういう事を言う人が出てくることになったんだと思います。

は:p#309の上に方に「ヘタうまから始まるまったく新しい美術史を打ち立てようとした訳です」と書いてありますね。

中:そうだね、ちゃんと書いていましたね95年の段階で。

は:新しい美術史を構築しようという話ですよね。近代美術史テキストはそれまでの美術史を押さえた上でイラストレーションを組み込むみたいな、日本の現状をついでに述べたみたいな感じですが、ここでは全く新しく打ち立てようとしているんですね。

中:近代美術史テキストでも美術が不要になる日とか書いていますけどね。美術という名前かどうかわからない、文脈替えの話かもしれないけど、ヘタうまから始まるものがあるんだというのは近代美術史テキストのテーマです。フォンタナのカットがやりたかったにも関わらず壮大な内容を秘める事になったそうだい。

は:あれは下まで切れていた方がいいんですよね、

中:そうです。そのために左綴じの右開き、レイアウトを気にしながら書いていました。トムズボックスの方は下敷きを敷いてカットしていたんだけど、ちがう!と思った。

は:第六章では実際にはヘタうまと新表現主義の時代間のタイムラグにいかんともしがたい感情を抱いています。とあって、言われてみれば10年ちがいますがそれは大きな問題でしょうか?

中:大きな問題です。その間にテクノは死語になって最も恥ずかしい言葉になって、またリヴァイヴァルしたりね。バカCGはリヴァイヴァルですね、ヘタうまも死語でした。85年以降言わない事になってましたね、85年以降テクノもヘタうまも古い、その後イラスト界で保守反動化が起ったっていうのは現代美術史日本編に書いてあります。ヘタうまに対する反ヘタうまが、ただの保守反動になると、ただの純粋イラストで、ヘタうまは芸術のための芸術の様相を一瞬呈したのね、それがまた芸術のための芸術ではなくなってしまったので、後が続かなくなってしまった。

は:イラスト自体に歴史が無いというか、ここの「ファインアートの文脈でない限り、『反芸術という芸術』というトリックが使えないことでした」っていうのはそういう事ですね。p#310の一番上です。

中:そもそもイラストは自分の為には描かない、頼まれたから描くというスタンスが大前提であり、その意味では既に図式的には究極の反芸術であったわけです。ところがいわゆる反芸術との違いは、反芸術はファインアートの文脈上ですから、反芸術という芸術と結局言える訳ですよ、それをトリックと言っている。反芸術って言う事自体で芸術になる訳です。反芸術をすればするほど芸術になる訳です。芸術の文脈上で現れたものならば。ところがイラストレーションは反芸術だといってもイラストレーションは元々イラストであって芸術ではないから反芸術という芸術にはならないわけです。イラストレーションを反芸術とまでは言えても、反芸術という芸術、とまでは言えない訳です。

は:そこは「近代美術史テキストのおかした誤りの一つであります。」と繋がります。

中:僕の経歴における僕の誤りという事ですね。

は:美術家宣言と関係ありますね。

中:そうですね、これは問題ありますけどね、93年5月のイベントは頼まれてやったものだったので、いろんな説明が無いと不用意に出せないと今は判断しているのものです。これは、「美術家宣言とかやって下さい」と言われて「じゃあやろうか」といった受注芸術としてやったものなんです。けどそうは見えないですよね、美術家宣言とかいって。でもそうは見えなくてもそこは面白いと思うくらいの反芸術スタンスでやったものなんだけど、そういうのが一切伝わらないからそういう事が説明できる場所じゃないとちょっと出しにくくて、自分では出さない事です(笑)石井論文にも出ていますけどね。僕にとっての真の美術家宣言は97年のNWハウスでの個展です。93年5月のこのイベントはいろんな問題があります。もっとも悲惨な状態に入っている時ですね、さあ93年5月には何があったでしょう?銀ブラートです。銀ブラートで、ダダからシュールレアリズムに変わってしまった。中村政人が村上隆に勝ったせいで(笑)。でそれまで面白かったのが違って見えてくるようになって、かえって何でもありになってしまて、何をやってもできるんだけど何をやっても良くない状態でかなり捨て鉢、殺伐とした心境だった。で来るものは拒まずみたいな心境で「美術家宣言」がきた。なんかイベントやりませんか、イベントやってるんですけど中ザワさんに何かやって欲しい!例えば横尾忠則の美術家宣言を真似て美術家宣言とかやって欲しい。ああ、僕は何でもやります。と言うようなものだった(笑)でもそれをやりながらもヤバいなと思いながらやって、実際いろいろまずい感じに、後味が悪い感じになった。だから逆に言うとここにわざわざ書いているのは、自らの矛盾をさらけ出したというような形でなら書けるなと思って書いている。

は:あとは「従って時代的にはシミュレーショニズム全盛の90年に誕生してしまったバカCGは(遅れてきた)新表現主義としての使命のほかに、シミュレーショニズム的側面も持ち合わせたいと、当の中ザワは考えたのです。」とあって、確かに見てみるとシミュレーショニズムなんですよね。当時から遅れてきたという意識はあったんですね。

中:ヘタうまとしては遅れてきた。シミュレーショニズムは今の時代。問題はシミュレーショニズムやダダは、すべてはもうやり尽くされたという感覚とともにあったりする。新しい事をいくらやっても新しい事をやること自体もう古いよ飽きたよ、っていう感覚でレディメイドとか出てきたりね、シミュレーショニズムもそういう、その前のニューペインティングで一応いろいろな事があって、もうやり尽くされたっていう感覚があて、それによってシミュレーショニズムに切り替わったっていう側面が僕はあったと思っている。そこで問題は、パソコンは新しくて何もやり尽くされてない(笑)これはやらなければ行けない、これからの表現主義の時代にも関わらず世の中はシミュレーショニズムの時代だぞ、どうしよう、そういう事です。

は:で両方やったって事ですか?

中:両方ちゃんとやれてないかもしれない。そこでバタバタしてました。ジタバタ(笑)

は:名画とか描いてますよね。

中:そうです、わざわざ新しいパソコンで、いったいこれは何なんだ、富田勳が月の光とかやってる様なことか(笑)僕はどれをパロディすればいいのかわからない(笑)一方でPCは雑貨になる、あれ富田勳じゃなくてプラスティックスなのか、いや全部やんなきゃいけない全部、見たいな多忙な思いになってた(笑)大変だ大変だ(笑)

 でここにある図版はこの中バカCG対応表を除いて全部自分のパソコンの中から既にデータになっているものを使っています。それが第一回との違いですね。

は:黒丸の3に「歴史は自己批判の要請であり、そのため真に自己批判以上の事を欲するのであるなら、神という他者を戴く中世に逆戻りしなければなりません。」と書いています。アウトサーダーアートとか最近の国立新美術館のアボリジニの展示とか、神という他者を戴くって言う所と重なる所があります。

中:アウトサイダーアートとスピリチュアリズムが繋がる話ですね、スピリチュアリズムは神様が出てくる、信仰になってくる。

は:モダニズムの要請として歴史を捉える事を嫌がる人は結構いる気がします。

中:歴史自体を嫌がる人たちっていうのはいます。歴史を語ろうとすることはモダニズム的な事だから、それを嫌がる人はいます。そういう人のために歴史をとりあえず”やおい”と言って初めて見たのがこの前読んだ文章ですね。そしたら中村ちえさんは「いや歴史を語る事は正しいですよね」といってくれたけど、そうじゃない人も多いってことですね。

 原始的なものを好きな人は多いですね、茂木健一郎を始めとしてさ、これが最初の洞窟の人類の絵だとかいって、アルタミラ洞窟いって落書きしてこようかな。カモメみたいな記号とかかくといいよね、大事件になる(笑)

は:テレビで古代の南米の人が残した石に描いた絵に恐竜みたいなのがあって、そこに恐竜がいた説っていうのがやってて本当だったらすごいけどどああゆうのもうなんだろう(笑)黒い石に白で恐竜とか描いてあるんだけど、そういう石を集めた人がいる(笑)

中:集めた時点ですごいけどね、人間は貝を集める事ができるからね、ファンタジー館(*)で人間はここまでできるんだってことがわかったからね(笑)だから石も集められるよね。恐竜の時代はほ乳類はネズミだったことにされているよね。

は:小さいおかげで生き残ったことになってますね。そういえばファンタジー館は凄かったですね。ヨーロッパのアウトサイダーアートでありますよね、城を立てて今は観光地になってる。

ひ:シュバル

中:じゃあ繋げなくちゃ(笑)

は:食堂の広さは異常でしたけどね。

中:バスが何台も止まって大丈夫そうでしたけど。すっかり忘れてましたけどCG史はバカCGから始まるとか思ってた思ってた。逆に今はCGではこういう状況はないですね、昔はシンセサイザーでもこういう状況がありました。シンセサイザーさえあれば楽器が下手でもなんとかなるみたいな状況。

は:写真だとHIROMIXが出たころですかね。

中:現代美術史日本編を書くにあたってちょこっと調べたけど90年代ですね、確かプリクラの頃です。プリクラはデジカメの直前です。

は;でしきりと女の子が写真を撮り始める。HIROMIXもバンドやってましたね。アラーキーが推してた。

中:アラーキーが出てくる事自体90年代の現象ですね、まだ大御所では無かった。篠山紀信とかの方が格が上だったかな、アラーキーを相手にしてるのはガロばかり。

は:大御所になるとガロに載らなくなる(笑)

中:逆に大御所になる前にガロに載る(笑)プリクラは94、5年位かな(*『プリント倶楽部』は1995年7月に発売)、たまごっちも出た(*『たまごっち』は1996年11月23日に発売)たまごっちは今何になってるんだろ。

は:赤外線とかがついてリアイヴァルしていました。(*『かえってきた!たまごっちプラス』として2004年3月20日に発売)子供達が通信していたり。

中:たまごっちが出たときは携帯はまだみんなが携帯を持っている状態では無かったですね、たまごっちが携帯を準備して、プリクラがデジカメを準備して、ピンクレディがテクノポップを準備した(笑)UFO!とかいって、あとから見ればテクノな動きをしてた。機械チックな動きだしね。ひゅ〜るり〜みたいな事ではないからね。2人で同じ動きしてたし。2人っていうのもシミュレーショニズム的だったり、2人とオリジナリティの問題とか、唯一性がなくなるしね(笑)

 第2回の方が読みやすい文章ですね、でも当時は装飾が多すぎて駄目ですね。

こ:310の●1の今世紀美術史の一般論として、の文章で表「現主義の直後に常に反芸術が現れています。」という様に記述されているんですが、中ザワさん以外に美術史で循環史観を言ってる人っているんですか?

中:いない。前もそうだったとか気分で言ってる人はいると思うけど、あとネオダダの時にこれはダダの再来だとか冷めた目でダリが見てたっていう話とかあるけどトータルで見て循環で語れるんだ、って言ってる人はいないと思っています。

は:そういう見方に批判的な人は多くないですか?

中:凄い多いです(笑)歴史法則主義ってだけで嫌われたりします。でもそれはポストモダニズムの影響です。歴史に法則があって法則から見ていこうっていうのはモダニズム的なので。

 では今日はこれ位にしておきましょうか、どうもありがとうございました。

20091201 文責:平間貴大





*1:中ザワヒデキの全貌 −記号と色彩の絵画− 2007年12月28日(金)〜2008月1月7日(月)にBunkamuraで行われた中ザワ芸術25年の軌跡 http://www.bunkamura.co.jp/gallery/071228nakazawa/index.html

20090606  文責:平間貴大

戻る