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 中ザワヒデ
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【留意事項】
本報告について中ザワヒデキは、事実誤認がさまざまなレベルで多々あることを了承の上で読んでいただく分 には公開しておく意義があるとし、公開している

第二期六回 

二〇〇八年七月二日

文献
「中ザワヒデキ以後4 ROM - RAM 生死論」『ガロ』1994年8月号 p.254-255, pp.255-256
「中ザワヒデキ以後5 悲しき(笑)肉体論」『ガロ』1994年7月号 p.254-255, pp.257-258

中ザワヒデキ以後4 ROM-RAM 生死論
|何をいまさら世の中すべてコピー
|そこでROMとは?RAMとは?
|ROMが壊れちゃった人の話。
|ROM化と幽霊の関係。
|芸術なんて死ぬため。
|別に結論はないんだけども。
|補足1・RAM親和力(鳴くよウグイス平安京)
|補足2・ROM・RAM生死論の穴
|補足3・音楽における、楽譜というROMの存在

中ザワヒデキ以後5 悲しき(笑)肉体論
|手書きのナゾ
|「テクノ」とヘタウマの関係
|「テクノ」とヘタウマの関係・2
|頭だって肉体だよーん
|動画ソフトの肉体論的可能性
|肉体と神秘
|補足 会田誠氏のアプローチ

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中:今日は半田さんが少し遅れるのかな。何か質問とかありますか?

こ:ヒロヤマガタ問題の記事は何に掲載されたんですか?

中:スタジオボイスです。ヒロヤマガタの作品を買う直前まで行ったことあるよ(笑)村上隆はもっと踏み込んだ所までいって、別室に連れて行かれる直前の決めの言葉があるはずだとか言ってたよ。僕はその時に誘われてみようとしたときに、別のお客さんがまさに買うか買わないか迷ってる所だった。がっちりビジネスルールを作ってやってそうですね。今はそんなに毒々しく見えないけど、前はもっと嫌なものでしたよ、もっと呼び込みがたくさんいた。

 じゃあ始めましょうか、ではROM-RAM生死論ですね。

か:前の幸福論では「論」を付けたからまずかったんじゃないかと言っていて、あくまでコピーであって、それを自分に言い聞かせるために第一段落が”何を今さら世の中すべてコピー”と題されています。

中:糸井重里に”世の中すべてコピーなのだ”という本が確かあった、80年代に。糸井重里全盛の頃ですね。

か:ヴァーチャルリアリティをシュールレアリズムと内容はほとんど変わらないというのは面白かったです。今まではシュールレアリズムは美術の話でしか考えていなかった。でROMがソシュールのいうラング、RAMがパロールに当たるわけですね。ROMがリードオンリーメモリーでRAMがランダムアクセルメモリー。

中:これね、ちょっと間違ってて、ここではCPUを含めてRAMって言っちゃってるんだよね。2段落目ね、”RAMとは脳の一時記憶や単なるアタマの良さの事だとイメージしてます”とあるんだけど、アタマの良さっていうのはちょっと違う。でもね、それに気づいてしまうとこの2ページが台無しになってしまうので(笑)まあこの当時中ザワはこういうふうに解釈してたんだろうと思って下さい。

か:次にROMが壊れちゃった人の話で、その人は昨日の事が思い出せなくなってしまうから一日の最後にメモを取る。

中:いや、覚えられない。覚えられないから思い出すことができない。で一時記憶から記憶に移行できない。たとえばワープロで保存しないで文章ずっと書いてる感じ。ワープロ閉じると消えちゃう。でも書いてる時は2行前とか見える。病気や事故でそういう人は本当にいます。

か:ROM化と幽霊の関係、いがらしみきおの”すべての生物はRAMだ”の話。

中:一段落目でも触れていて、「IMONを創る」の中でROMは歴史でありRAMは記憶であるとゆ言い方をしています。とある。

か:でRAMをROM化したいが故に芸術作品を創るんじゃないかと。で自殺する芸術家がいるのは、RAMのROM化が完了したからという説明もできると。

中:これは念頭に置いているのは芥川龍之介とかニコラ・ド・スタールという画家。ゴダールのきちがいピエロで最後自殺するじゃない、でその場所のロケをしたのが南フランスの別荘みたいな場所なんだけど、それがニコラ・ド・スタールの実際の別荘でそれに掛かってる。美術の人がみるとニコラ・ド・スタールの為の映画にも見れて、随所にニコラ・ド・スタールの絵が飾ってある。50年代位に活躍して、アンフォルメルの直前、抽象か具象かのまっただ中にいた。自信は抽象から抽象から具象へと移行しつつ、自殺した。美術の教科書にもででるかな。グリーンバーグの評論にも出てくる。ここまで描いたら死ぬしかないだろうという作品に見えます。瑛九の晩年の点描も凄い作品で、ここまでいったら後は死ぬこと位しかやることないだろうという作品があります。数年間で何百点も描いた。ポロックやロスコもそういう面があるかもしれない。ポロックはそんなこと無いかな、やるべき仕事をした後に、才能のない自分をださなければいけない時期があって、やけになって死んでしまった節があります。

か:三島由紀夫はどうでしょう。

中:外国人に三島を進められた事がある(笑)

か:でRAMのROM化をそのまま作品にしたのが河原温のデートペインテイングでそれはその日の日付のみかかれた作品。いとうせいこうのノーライフキングに出てくる少年もRAMのROM化。

中:ニューエイジアートの回でちゃんと”この辺の話はいつかROM-RAM生死論としてまとめたいと思います”と書いてるね(笑)

か:ROM-RAM生死論がガロを読んで行くと幽体離脱論に繋がっていくのかなと、一緒ではなですけど。RAMが幽に近くてROMが体になりますね。で最後にこの文章を書く理由もRAMをROM化するためと。でここでRAM親和力(鳴くよウグイス平安京)という段落ではモナリザはダヴィンチの頭の中のRAMがキャンバス上のモナリザといいうROMに置換され、それがそれを見た鑑賞者の頭の中で再びRAMとなって初めて意味が生成する。で中RAM親和力が高いものが素晴らしい作品といえる。で中ザワさんはここで、RAM親和力を高める事自体を目的化したために、記憶に食い込んでしまうような芸術のありかたを考えるわけですね。

中:そうそう、そういう事をしたい(笑)美術史の中で一つ考えた。アビニョンに行く女、ピカソのアビニョンの娘たちは1907年だから、い、く、おん、な(笑)RAM親和力高い!

か:その後にROMーRAM生死論の穴という所ではROMが作者の意図とは違って解釈されてしまうこと、その例がショスタコーヴィッチの証言を読むか読まないかで作品の解釈ががらっと変わってしまう。

中:ここで誤解の無いように断っているけど、ここではRAMをROM化するというのを「生きている証」みたいなマジな文脈で芸術といっているけど、そうではない、たまたまROMとして残ってしまったものも芸術にはある。RAM親和力の高い芸術を以前授業で言ったと思うけど、千の風はそうですよね。

 あ、半田さん来ました、では始めましょうか。今日は第六回。ガロは早めにいきましょうか。

ひ:”悲しき(笑)肉体論”ですね、初めは手書きの謎。オリジナルの手書きフォントを作りたいという事で見た人の受ける印象が違うのは勿論の事、それを越えたさまざまな意味が生成されるハズ、個人的意見であるように見えやすいし、パロディ効果も生むと言っていて、そこはその後の書き手の肉体が見える事で、同じ内容の文章がよく見えたり逆に悪く見えたりする事すら、おうおうにしてあります。つまり肉体をハードであると言い切りたくても、違うかもしれない、ひょっとして肉体自体がソフトだったりしてしまうのではないかしら?に繋がっています。で次の「テクノ」とヘタウマの関係では肉体が一義的にはハードの属性であるからして、ハードすなわちテクノの問題は避けて通れないはずです。と、印刷技術の発達により、下手だけど味があるみたいなものに余裕を持って接し、価値を見いだすことができるようになったのではないでしょうかとあります。

中:この写植書体っていうのは文字のフィルムを作ってネガを焼く、それで印刷していくやりかたね。へたくそな写植はピンボケになっちゃうのよ、逆にそれをわざと使ったのが菊池信義。最近高松次郎の本を装丁しましたね。ちなみに本に著者名のわきにローマ字で名前が書いてある事が多いじゃない、それは菊池さんの本から始まっている。その時に写植の書体屋で有名なのは写研とモリサワだった。写研の方がメジャーでモリサワはややマイナーったんだけど、90年以降モリサワは凄くがんばった。で今のデジタルフォントはモリサワはほとんどモリサワが押さえています。

か:今はほとんどモリサワの方が有名ですよね。

ひ:でテクノとヘタウマの関係ではコンピューターを使うことによって、中にはこれで肉体によらない絵がやっと描けるという方向性を模索した人々もいますが、私は逆にパソコンが当たり前になってしまった人にとっての手書きを模索した訳です。

中:例えば伊藤ガビンの言うヘタウマはそういうことなんだけど、当時の3Dグラフィックとかやってた人は肉体によらない絵を模索してした人ね。パソコンの中で絵を描く人は未だに少ないかな。

ひ:で次にでてくるのは”頭だって肉体だよ〜ん”。で頭のクセや手クセ。これって無意識とか天然の部分とかですかね。

中:これはシュールレアリストがめざしたものでもあるよね、自動書記によって人間の本性が現れる。まあ今の言葉で言えば天然(笑)ですね。

ひ:次の”動画ソフトの肉体論的可能性”でマッキントッシュの動画制作ソフトのマクロメディディレクター。

中:これはね、素晴らしいソフトなんだけどみんな使った事ないですね、マクロマインド社のマクロマインドディレクター(MMD)いまはアドビになっちゃってるのかな。この中での言語でリンゴというのがあって、僕はそれを使って作った作品が蒲郡にあります。

ひ:その後はおもしろい動画の作り方があって、眠いときに作ったり適当にリアルタイム録画をして作ったものをプレイすると、手のバカな動きと頭のバカな動きがミックスされて動画ができる。

中:当時この系統を真面目にやってみたんだけど、その後生かしてないですね。

ひ:このやり方だといくらでも作品ができますね。

中:そうそう、誰かに締め切りを作ってもらえればいくらでもできる(笑)

は:これは具体的に作品がありんですか?

中:見せる機会もないですね。音楽の文脈でやったのは一回あります。

ひ:次の肉体と神秘というところでは、魅力的なヘタウマもあれば、ヘタが本当に欠点にしかなってないただのヘタもあるという事実をなにも説明できていない。の違い、ヘタとヘタウマの違いもそうですけど、同じ絵でもヘタにもヘタウマにもなるっていうことですか?

中:両方あるんじゃないですか?ヘタウマに見える場合を神秘の領域と言っている。これは山口優君が神秘っていうような事をしゃべったから書いたんだけど、僕は、やっぱり神秘の話をしだすと話が終わるんだよね、だから神秘の話をせずに最後まで行こうというのをやってて、方法主義は一つね、方法主義では神秘を禁止してる。でここでは方法主義に行く前に神秘にからみとられてみたという辺りですね。

ひ:つい無防備に防衛本能的に反神秘主義的な発想ばかりしているうちに、神秘の領域に蓋をしていたことすら忘れちゃっていました。ともあります。

 ”テクノ”っていう言葉の説明で、有人改札が自動改札機に変わって、おばさんがまごまごしている状況というのが面白かったんですが、、

中:これ意味わかるかな

は:おばさんの気持ち凄く解る、、、パスモを無理矢理改札に入れようとしてしまった。。。

中:ヘアライブの打ち上げでどういう状況がテクノかっていう事を話し合って、電車が初めて通った時に、お客さんが乗って、電車が出発した。そしたらホームに草履がおいてあった(笑)脱いであがっちゃった、テクノだ(笑)。ヘアライブは盛況でした。

 今までのイベントもほとんど記録をしているんだけどハードの問題があって、Hi-8とかフロッピーカメラとかあるからね、DVDに焼きたい、ブルーレイでもいいけど(笑)常にそういう問題はありますね、古いmacでしか動かないのもあるし。

ひ:会田誠の習字の展示について、痛い芸術っていってるんですが、その痛さって何ですか?自分の体を使う事に一つの痛みがありますか?

中:というかこれは強制だから、盆栽で美しい形にするために針金でぐるぐる巻きにしたり、それと同じような事です。正しい方向に自分を強制していく痛さ。

は:歯の強制は痛そうですね。

中:そうそう、痛そうですね。フォントの話だと松本玄人さんとか作ってましたね。

 フォントが手書きの方が面白いっていうのは失敗なんじゃないか、っていう方向からいったのが方法主義でした。

 前に作曲家本人が書いた楽譜は素晴らしいっていう話があるんだけど、黛敏郎の手書きの楽譜があってそれが素晴らしくて岩城宏之がそれで振ったりして、でもそれが出版されてしまった。その時に譜面を書く業者によって書き換えられてしまう。そうすると一般的な譜面にはなるんだけど、振りにくい。だから自筆譜で振れるのはいいけれど、作曲家もそういう楽譜の仕上がりの責任も持って欲しいというのをどこかで読んだんだけど、難しい問題ですよね。僕がさっき行言ったのは譜面の書き方によって左右されない曲の方がいいんじゃないかという事なんだけど、手書きじゃないといけないとは思わないけど、見せ方によって内容は変わってくるから、その辺はいろんな問題があると思います。

は:近代美術史テキストは手書きですよね。

中:この論は近代美術史テキストの著者として書いていますね。解説にもなっているし、その後考えを進めたものでもあります。あれは手書きと内容が一体になっているので、あれを普通の書体にして普通の本として出版しましょうっていう話が何度かあるんだけど、全部断ってる。

 この連載自体はいろいろ考えつつも曖昧だった。方法主義にいって、手書きはいらないという方向性に行ったけど、この頃は手書きの方が伝わると思っていて、タイトルも欄外も手書きで書いている。マウスで手書きするの大変なんだよ(笑)でこの文章が単行本になるとしたらこの手書きの題字とかどうなるかわからないけど、文献研究では伝えられる。RAMをROMに残す時に、ROMのメディア特性というのがあって、ROMに残すっていってもROMがキャンバスだったり壁だったり変わってくるから、はっきり分けられない。だからといって放置するんじゃなくて、何らかの事を考えなければいけないというのがこのガロでは書かれています。

 もう時間かな、次は反則ワザその栄光と挫折論で幽体離脱論、で次はしりとり論かな。今日はどこかに食べに行きましょうか。

20090528 文責:平間貴大

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