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 中ザワヒデ
 キ文献研究
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【留意事項】
本報告について中ザワヒデキは、事実誤認がさまざまなレベルで多々あることを了承の上で読んでいただく分 には公開しておく意義があるとし、公開している

 

二〇〇八年十二月五日

文献
なそ説(なにもそこまで説明しなくっても……)第一回 『Z-KAN』2000年5月号pp.116-121
なそ説(なにもそこまで説明しなくっても……)第二回 『Z-KAN』2001年8月号pp.116-120
なそ説(なにもそこまで説明しなくっても……)第三回 『Z-KAN』2001年11月号pp.114-117
なそ説(なにもそこまで説明しなくっても……)第四回 『Z-KAN』2001年2月号pp.118-121

  この日の文献研究はなそ説(“な”にも“そ”こまで“説”明しなくっても……)全四回分を対象として進められた。 なそ説は受験関係の出版で知られるZ会から発刊されていた季刊誌『Zカン』にその廃刊までの四号分のあいだ掲載された。 中ザワへの執筆依頼は、『Zカン』でZ会と共同企画を担っていたアルクの編集部に後の方法同人の松井茂がいたことが 直接の契機となっている。また、原稿依頼を通じて松井と中ザワは知り合うこととなったが、 このとき昼食をとった渋谷109裏側の「渋谷の真ん中の熱海」ことレンカという定食屋で 篠原資明がすばらしいという話題から<方法>が誕生したのだという。

  中ザワは「自分の作品のプロパガンダ以外やりたくないよ」と発言し、なそ説はその中でも 徹底した作品解説になっている。また、作品について「説明されなきゃわかんないよ」という批判を 受けたことがあり、ならばということで説明しなくても完全にわかっている人を登場人物として 作品解説を行わせている。なそ説のタイトルにはこうした皮肉も含まれている一方で、 自分自身に対する戒めでもあると中ザワは付け加えた。その上で、自分の作品について印象批評ではない 批評をきちんと提示しておくという意図あったという。また、防忘録的な役割もあり中ザワ自身も 再読して自分の作品について忘れかけていたことが思い出せたという。中ザワにはこの連載で自らの 作品を年代順にゆっくり追っていく構想もあったようだが、 急な廃刊のため最終回である第四回にいきなり当時の最新作について書くことになったと回顧した。また、 編集にあたった松井は単行本の出版を目論んでいたが、これも廃刊によって潰えることとなった。

  第一回は、印刷屋の職員を語り手として『二九字二九行の文字座標型絵画第一番』(1997)を解説している。この文章の書き出しである 「いやぁ、あなたでしたか」は実際に中ザワに発された言葉であるが、その印刷屋には最終的には仕事を任せなかった とのことである。また、文中で細かな描写のあるカストリ作業だが、これは中ザワ自身が作品の制作にあたって 実際にカストリ作業をした経験に基づいているという。文中(pp.119)に掲載されている図版は、作品の構想として 作られた29×29ドットのBMPデータである。なそ説は白黒だったために斜線や点などで色の差別が設けられているが、 原データはカラーであり、構想でもそのカラードットを並べながら色についての調節を行っているので中ザワいわく 「実感としても色彩画として作っている」。この構想データが中ザワのコンピューター内に保存されていたので 参加者一同で拝見することになったが、このとき見た分だけでも百近い数のデータが構想段階に存在していた。 また、中ザワは「この虫みたいな形は気持ち悪くて楽しいなあ」などと考えながら作業を進めていたという。 ただし、ここで経験されている快楽は、決定に介在するものではなく、あくまで決定の後のものだと中ザワは付け加えた。

  他文献とのかかわりに触れておくと、119頁の“色彩=色々”という表現は、「文字の意味と反意味」 (『ユリイカ』1998年5月号, pp.212-219)に関連する議論があるという。また、同119頁の“たしか昔は……”から始まるひらがなの 倒立と真名・仮名についての議論は、初めは直感として中ザワに訪れたものであるが、後に白川静『字統』を読んで 理論的に整理されたという。また、「中ザワヒデキの五〇〇〇文字」第二回に“日本語の雑種性”ということが特に説明 もなく触れられているが、これは暗に真名・仮名について言及しているのだという。また、これ移行の文献では ひらがなの倒立についての理論的説明は表意文字・表音文字の違いを用いた説明へと移ってていくが、中ザワは 表音・表意の方が説明としてよりわかりやすいとしている。

  第二回は友人の医師を主人公に作品解説を行いながら、中ザワの二項対立ならびに相互移行 についての議論を発展させている。この主人公については具体的なモデルはいないという。中ザワはこの第二回を よく書けていると評価しており「第一回は読んで恥ずかしかったが第二回を読んで救われた気分だ」「なにも ここまで説明してよかった」と発言した。文献研究参加者一同もこれで言ってることがよくわかったと発言し、 中ザワは「僕の書いていることが気違いじゃないってわかってくれたかな」「(中ザワを電波系として 評したことのある)斉藤環もこれを読むべきだ」と茶化した。 ただし、Zカンの編集部からは、文章としてはおもしろいが 中ザワの作品にいくまでのひっぱりが長すぎるという反応があったという。この反応を受けて、第三回は 書き出しからいきなり中ザワの作品についての話にしてやったのだという。

  他文献との関わりは、まず皮膚病についての議論が「作曲の領域」(『ユリイカ』1998年3月号, pp.138-151)の 冒頭部分と 対応している。また、本文中で引用されているウィリアム・ブレイクは、ちょうど同時期に執筆していた 西洋画人列伝でも引用して議論が展開させられているという。

  第三回は、ベッドで愛し合う二人の男女が中ザワの個展について語る場面から新たな生命の誕生までを 描いたドラマの中で、主人公の女性・幸子が中ザワの西早稲田NWハウスでの個展を解説している。 幸子という名前には特に由来もないことが確認されたが、皆藤の母の名前と偶然一致することが明らかになり、 皆藤は「俺、こういうふうにして生まれたのか」と嘆息した。中ザワによれば、囲碁の作品は官能的な作品として 位置づけられており、文体もそれを反映しているのだという。この回の独特の語り口は執筆当時も波紋を巻き起こした ようで、単行本化を意図していた松井は「単行本化するとき載せられないな」と発言し、北九州市立美術館 2001年展覧会の担当学芸員前田さん(女性)は「読んでるとき、どうしようかと思いました!」などと 反応したとのことである。この回で解説されている作品は囲碁のセキを用いているが、中ザワはとりたてて囲碁を やった経験もなく、作品の制作にかかるまでは囲碁のルールやましてやセキの概念などはまったく知らなかったという。 次は絶対囲碁だ、という確信がまずあって、それから入門書などを読んで作品の構想を固めていったとのことである。 ただし、囲碁は囲むもの、という漠然とした認識があり、そこにおもしろさを嗅ぎ付けていたという。余談として、 “AV女優がキリスト様”には当時の黒木香ブーム、“ヒメリンゴ”には執筆当時に代々木上原にあったオーガニック レストランでヒメリンゴを食べたことがそれぞれ反映されている。また、最後に幸子が出産をすることについては、 「学生が読むものなので、子供を生むことによって、ただのポルノにしないで生命の尊さにつなげていこうと」という 配慮があることにされた。

  関連する文献だが、「中ザワヒデキの五〇〇〇文字」第三回における相互移行についての 議論が内容的に重複している。囲碁のセキを用いた作品はビットマップと オブジェクトの相互移行に位置づけられているが、相互以降について論じている「中ザワヒデキの 五〇〇〇文字」の執筆段階では作品の発表以前だったのであえて言及しなかったという。

  第四回は、カナダでアーティスト・イン・レジデンス中の海外アーティストがレジデンスの同僚である 中ザワのEメール作品について解説を行うという形になっている。この海外アーティストに具体的モデルはいないが、 カナダでのレジデンスはこの時期じっさいに行われていたという。このカナダでのEメール作品に先行して、 1999年には西早稲田NWハウスでEメールアートプロジェクトを二回行っており、そのいずれも反応を 展示している。このプロジェクトについての文章は書かれていないが、このときは匿名で「個展にお越しいただき ありがとうございます……」という旨のEメールを個展のウェブサイトのアドレスと共に 個展が始まる前に一斉送信するというものであったという。このときは反応が豊かでおもしろかったと 中ザワは記憶しているが、それ以降は社会全体で迷惑メールに対する 反応が徐々にヒステリー化していき、反応も個人的なつながりのある人に狭まっていったという。第四回の 末尾でEメール作品から引用されている市民/芸術家の対立の感覚は、Eメール作品を迷惑メールとして 拒否するような反応によって培われた部分もあるという。

  第四回には重大な誤植がある。“Bを便宜上「1の魔方陣」”という箇所は、 “Aを便宜上「1の魔方陣」”となるのが正しい。

  関連する文献について、Eメールに関するもので、『あいだ』では松沢宥の 追悼として「松沢宥は生きている……」という内容のEメールを送信しそれに対する反応を掲載している。 また、市民感覚については、方法機関誌の9・11号に寄せた文章とBT?月号の参戦宣言が関係している。 類似した話題として、人生のための芸術(シュール)と芸術のための芸術(ダダ)を市民と芸術家に対応させて 述べている文章として『アートセラピー潮流』「セルフエデュケーションの時代」がある。

  この日の夕食の献立は、前回リベンジを誓った かぼちゃ料理はなんとなく中止にして、しょうが焼きとホタテの吸い物となった。しょうが焼きは下ごしらえ として豚肉・刻んだ玉ねぎ・しょうがを醤油・みりん・りんごジュースを混ぜたものに文献研究の始まる前から漬けておいた。 ホタテの吸い物で炊飯器で白米が炊き上がるまでのあいだ小腹を落ち着かせておき、それから 焼きたてのしょうが焼きを炊き立てのご飯と食した。

20080115 文責:田村将理

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