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 中ザワヒデ
 キ文献研究
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【留意事項】
本報告について中ザワヒデキは、事実誤認がさまざまなレベルで多々あることを了承の上で読んでいただく分 には公開しておく意義があるとし、公開している

 

二○○七年十月三十一日

文献
「「方法」の活動と終焉」『妃』2005年9月号 pp.41-65

  この日の読書会は『「方法」の活動と終焉』ならびに『中ザワヒデキの五千文字』を 議題とするものだったが、結果としては前者についてのみの議論となった。また、この度の 集まりで本報告のあり方が定まる運びとなったが、主要な変更点としては参加者の記名が イニシャルから実名となったことと、議論内容の報告段階における取捨選択を(引き続き) 極力しないということへの同意を結んだという二点である。これらは本文の性質についての 説明となるものなのでもあるので、文献研究の報告に先立ってここでその経緯を紹介しておく。

  この報告書の性質についての議論は、初回報告についての中ザワが受けた印象から派生した。 中ザワは初回報告の記述が詳しすぎることにいささかのためらいを覚えており、中ザワから 田村により簡素な形での報告書を書く旨の 提案があったが、田村は次の二点からその提案を却下した。まず、報告を簡素なものとするに あたり何を基準に議論を取捨選択するのか不明であるということ、そして仮にその基準が設定され得たとしても、 合目的的に取捨選択された記録は中ザワについての将来的な文献研究のサブテキストとして不十分だろうという 見解である。こうしたやりとりを経て、中ザワは研究経緯をでできるかぎり言語化することを 承認し、一方で「匿名だから何でも言える」という状況を避ける仕掛けとして参加者の氏名公表を 提案した。この申し出に対し皆藤は快諾し、田村と半田はそれぞれ異なる理由で抵抗感を表明したが、 最終的には中ザワの意図に応えることとなった。換言すれば、「何でも言ってしまえ」ではないが、 自らの名で責任を引き受けた上で発言した以上は「何でも書いてしまえ」という立場である。

  そしてその場の勢いであれもこれも書いてしまえという流れになり、 固有名詞もできるだけ特定化することへの合意が結ばれた。たとえば中ザワらが食事をした店の 名前などの瑣末な事柄も、それらを逐一特定可能にしておくことで 将来の中ザワ研究家がそこに歴史的痕跡を見出すことのできるよう便宜を図るものである。

  さて、今回『「方法」の活動と終焉』の担当となっていた半田は、当文献の時系列に沿った構成に 従いながら議論を進めていく旨を確認した後、いくつか感想を述べた。まず当文献が<方法>を ブランド化するために書かれたのではないかという印象を受けたということ、次に中ザワと 足立智美(方法芸術宣言の起草立会人であり初期メンバーである)の対立が興味深かったという こと、そして、<方法>に対して半田が当時抱えていた「なぜ今総合芸術なのか」という問いが 当文献を通じて明らかになったということ、等々。こうした半田の感想に顕著なように、当文献は それまでにまとまった記録の編まれてこなかった<方法>の諸活動を、<方法>内部のやりとりや 中ザワ本人の内心といった領域の記述を通じて歴史化したものである。ひとまずは『「方法」の活動と終焉』に ついて話し合われたことから、当文献の書かれた経緯や背景、そして当文献の内容についての注釈的議論を整理する。

  まずは『「方法」の活動と終焉』の経緯と背景である。当文献は二○○五年に十三年ぶりに再刊行される運びと なった詩の同人誌 『妃』に掲載された中ザワの書き下ろしであり、時系列順に<方法>の経緯を追った全十七章によって構成されている。 中ザワによれば、『妃』編集長である田中庸介が<方法>同人の 松井茂に寄せていた関心を通じて、<方法>の歴史についての原稿執筆の依頼が中ザワに来たことが直接の 契機となっている。 中ザワは想定されていた原稿量を<方法>第二宣言のところで超過したが、田中の厚意によって <方法>の活動を総括するに十分な原稿量を確保することができた。その際に田中は『妃』自体の刊行を 中ザワの脱稿まで遅らせており、その点について中ザワならびに皆藤・田村・半田は深い敬意を表した。また、 原稿の依頼に際して中ザワは「参加しませんか」という形で誘いを受けているが、ゲストのつもりが『妃』の 同人になっていたということに当時驚いたということを語っている。

  また、発表後の反応としてかつての<方法>同人の足立から批判を受けており、 それは中ザワによる足立の発言の引用その取捨選択に恣意的なものがあるというものである。さらには、 かつての<方法>同人の中でも足立は自らの活動領域に明確な線引きをしており、方法主義者「として」公開された言葉の中でのみ自分は 方法芸術家であるという立場をとっていた。したがって、中ザワが足立の発言を公的なものから私的のものまで あたかも同一の方法芸術者によって発された言葉であるかのように引用してしまうのは、 非・方法芸術家の言葉を方法芸術家の言葉として不用意に接続してしまうことになる。だから、もし 私的な言葉を完全に排除しないのであれば、むしろ私的な言葉をすべて引用すべきであるというのが足立の批判である。

  次に、『「方法」の活動と終焉』の内容についての注釈である。当文献についての内容的な議論ではすでに書かれていた内容の再確認になる場面も見られた。本段では そうした重複部分は割愛しつつ、議論によって新しく提示された情報や解釈について整理していく。

  まず、第一章で「二声の五十音インベンション」の初演の後に中ザワが“より強力な「方法」の採用と恣意性排除 の必要を感じた”ということについて、そこでの内面的動機についての問い直しがなされた。ここにはまず半田による “なぜあえて原理主義なのか”という問いがあり、そこに他の参加者の関心も引き寄せられた。中ザワによれば、 恣意性を排除していくことへの欲求は一九九六年ごろに生まれたものというが、同年の特許出願とは 直接の関係にないと説明された。むしろ背景にあったのはポストモダン的な快楽主義への懐疑であり、そうした ポストモダン的態度を否定はしないものの、彼自身は恣意性の排除に表現の可能性を見出したという。しかし 試作的に作曲された「二声の五十音インベンション」では文字の選択にあたって日本語的な音を恣意的に選択 するなどダダ的なおもしろさの追求に走っていることや、濁点や「ん」の使用など実際には五十音と いう制限に対して忠実ではないということもあり、恣意性排除の不徹底が明らかになったという。 そうした認識から、足立智美や芳賀徹の音声詩に対する近似を超えて作風を屹立させる上でも、 また、対位法という音楽の方法を支持体の素材を超えて純粋抽出するためにも、 恣意性の徹底排除が要求されたという。ここには、 文字を素材とするから詩であるというような素材中心のフォーマリズム的理解を超えて、対位法という構造的特徴のみ によって作品を音楽として提示するという意図があり、偶然性や恣意性は構造の純度・強度を和らげるものとして退けられる ことになる。

  このように作品の根幹を素材から構造へと受け渡していく中ザワの試みは、半田の指摘によって、 <方法>が常にジャンルを併置させていることと理論的に接続された。つまり、音楽的構造の上で異なる素材がなおも 音楽として働きうるように、方法という構造的秩序の上に音楽・詩・美術という異なるジャンルがなおも <方法>なるものとして働きうるのである。

  第三章についての議論では「難解趣味」という言葉についての討議がなされた。 中ザワによれば、中ザワは当初より難解趣味であり禁欲趣味であるが、そうした禁欲「趣味」的な (感覚的な判断が介在する)姿勢が足立によって批判されたという。方法主義第二宣言にあるように “方法主義は禁欲主義に陥ってはならない”のであり、これはつまり禁欲的な姿勢が転じて 快楽を呼び込んでしまうことへの事前的な禁止命令である。しかし中ザワはそうした禁欲の快楽への転化が避けられない ことを重々承知しつつも、あえてそのことに自己言及せずに、 モダニズムの再演として禁欲を提示してみせることに意味を見出していた(詳しくは 第三章の方法主義第一宣言の削除箇所についての議論を参照せよ)。しかし、 この点についての理解のずれが外部からのまなざしだけではなく<方法>内部においても一貫して 残っていたことが、中ザワに方法主義の趣意表明を『妃』において改めて行わせているのである。

  この「難解趣味」という言葉の意図について、参加者一同は中ザワに より詳しい説明を要求した(註:このときの話の流れで、難解趣味と禁欲趣味が混同しており、本報告はその 混同されたままの経緯を書いている)。 中ザワによれば、テクノポップ、とりわけクラフトワークが禁欲趣味の典型である。 彼らはスーツに身を包み制限された身振りの中で機械の物的制限に身をゆだねているが、まさにそうした 身体の機械的抑圧が欲望に転化しているという。同様に、ハイ・レッド・センターのスーツに身を包んだ佇まいには、 ネオダダのモヒカンに象徴されるような芸術(家)的欲求を制限することによる禁欲への趣味的な傾倒があるという。 また、中ザワにとって「機械=方法=テクノ」という図式がある程度成立しているということが 言明された。そして、中ザワが難解趣味に目覚めたひとつの契機となった歌である上野茂都『わたしは笑ったことがない』 を聞く流れとなったが、隣の部屋で十人ほどがファットなビートに乗せて “中学生ー♪”という大合唱をしていたので聞こえず、ひとまず後回しにして 議論を進めることとなった。

  第四章については、機関誌「方法」の成立についていくつかの注釈が加えられた。中ザワによれば、 芸術運動の大事なものといえば宣言と機関誌という二つであるという俗説があり(中ザワ自身は ここで松浦寿夫を参照していた)、総合芸術運動の形式を整えるうえでも機関誌というものが不可欠であったと 中ザワは語った。一方で、当文献内で後述されるように、中ザワはゲストの発言に次第に過度の偶然性を見るように なる。というのも、上段で紹介したように、方法主義第一宣言での自己言及的箇所の削除は当宣言のモダニズム的外観を 確固たるものにしたが、まさにそのことによって方法主義が「ただのモダニズム」として理解され、ゲストたちが そうした重層性を認識しないままに方法主義のモダニズム的性格を批判し始めたからである。ここでも、方法主義宣言の 重層的な再帰性が不可視化されたまま、本来の意図と異なる方向へと誤解を再生産していく過程が 確認された。

  第五章については方法鼎談が議論の中心をなした。まず、方法鼎談の制作過程についてのより具体的な 説明が求められた。中ザワは方法鼎談という形式の構造を「各人が順に発言する」ものとして規定しており、 方法鼎談はその形式に従いつつ<方法>同人らと相談しながら書き上げていった一種の戯曲である。 まず半田が「なぜ戯曲形式なのか」という問いを発し、それについては当の第一回・方法鼎談(図書新聞、2000)が 適当な参考文献として紹介された。いずれ文献研究の集まりの中で再検討することとなったが、ここで いくつかの説明がなされた。 方法鼎談とは、まず方法主義者というひとりの人格を想定し、それが美術家の形をとれば中ザワであり、 詩人となれば松井であり、音楽家であれば足立(後に三輪)となるという状況を演じるスクリプトである。 この方法鼎談について「こんなにまとまった鼎談は読んだことないよ」という反応を当時受け取ったそうだが、その発言を 紹介しつつ中ザワ は「そりゃそうでしょー、やってないんだから」と茶化した。しかしながら、これは方法主義の根幹である 恣意性の排除を明確に反映するものであり、即興性や偶然性を呼び込まざるをえない現実の鼎談は、 鼎談という形式のシミュレーションに道を譲らねばならず、そうすることで伝えるべき内容としての 「三ジャンル併置のスタイル」がそこに正確に提出されていなければならないという中ザワの意図が 確認された。

  第七章では、この「三ジャンル併置のスタイル」を明確に提示することとなった北九州市立美術館での 方法芸術祭について述べている。ここでは主に方法芸術のマルチメディアとインターメディアに 対する位置づけが確認された。方法芸術とインターメディアの関係については当文献にも簡単な 記述があるが、より詳しい文献としては機関誌「方法」に中ザワが寄せた「総合芸術・間芸術・単芸術」 により詳しい。中ザワによれば、方法芸術は足し算的なマルチメディアでもなく、どこでもない場所としての インターメディアでもない、「[素材としては]文字であるけれど、音楽かもしれないし詩であるかもしれないし 美術でもあるかもしれない」ようなところに位置しているという。その実例として、方法芸術フェスティヴァル で行われた方法カクテルは、構成素材に着目するフォーマリストの視点からは「お酒」というジャンルに分類される ことになるだろうが、それは、音楽家にとっては音楽であり、詩人にとっては詩であり、美術家にとっては 美術であるところの方法芸術なのだという。

  このあたりで、ここまでの議論を振り返りつつ<方法>内部における中ザワと足立の関係についての 話題となる。この点については当文献での方法主義宣言の経緯に関する議論が詳しいが、中ザワの 当時の印象としてはこのずれについて<方法>外部からのまなざしがほとんど無頓着であったことが 気になっていたという。たとえば方法主義第二宣言は足立の起草によるもので、 その内容に同意をしていなかった中ザワは立会人としてのみ名を連ねていたにもかかわらず、 当時中ザワが所属していたレントゲンクンストラウムでの展示の際のプレスリリース ではそれが中ザワ自身の言葉として紹介されていた ことに中ザワは不満を表した。このように同一で調和した運動体としての<方法>という像とは裏腹に、 <方法>の活動は差異と不和に満ちたものであった。そうした事情が見えないままに<方法>は終わってしまったが、 それをはっきりとさせるという目的でこの『「方法」の活動と終焉』が書かれたと中ザワは説明し、 <方法>とそれを取り巻くまなざしとの決定的なずれを修正しようとする姿勢が改めて確認された。

  中ザワによれば、足立の<方法>への参加は限定的なものであった。中ザワは<方法>同人に 常に方法主義者として活動することを期待していたが、足立は<方法>に参加する以外の場所では 方法主義者を名乗らなかった。中ザワは方法主義をある種のブランドとして積極的に利用していたが、 足立はそれに与しなかった。方法主義は演奏による差異の生産に与しない作曲の領域にて禁欲的に展開する ものであるが、足立は演奏をこそ自らの表現の領域と捉えていた。だからこそ足立は方法主義に従った作品を 制作してはいるものの、それらを自らの重要な作品として見なしておらず、その意味で、中ザワにとって足立は 「方法主義を理解しているが、方法主義者ではない」。

  二人の行き違いは方法主義宣言を巡るやりとりに顕著だが、この点について当文献の他に参照すべきは 機関誌「方法」の最終号に足立が寄せた方法主義第四宣言である。これは、足立のみを起草者として記名して 立会人抜きで第一宣言を採録したもので、方法主義とは第一宣言に他ならないという足立の立場を表している。 それまでに出された方法主義宣言のうち第一宣言と第二宣言は異なる文章であり、つづく第三宣言は第一宣言の 採録となっている。これについての中ザワと足立の見解は次のように異なっている。中ザワの場合、第一宣言と第二宣言の 間には共約不可能な差異があり、第一宣言の第二宣言に対する正当性を再主張するものとして第三宣言で第一宣言を 採録している。一方、足立は第一宣言と第二宣言は同語反復の関係にあり、むしろ第二宣言は第一宣言を補完するような 従属的な立場にあるが、両宣言の間には共約不可能な差異はないと捉えられている。つづめて言えば、中ザワにとって 宣言の歴史には第二宣言という断絶があるが、足立にとっては依然として連続している。なお、宣言の文面にのみ 着目すれば方法主義宣言は一二一一という歴史をたどってきたが、中ザワが足立から方法主義宣言採録の話を聞かされた ときは一二一二にして狂言の構造に倣わせるといいと提案したという。しかし、足立にとっては第一宣言は第二宣言に対して 同語反復的でかつ優位にあるものなので、最終的には第一宣言の文面が第四宣言として提示される運びとなったという。

  第八章では足立の脱退と三輪の参入が描かれている。文献研究の議論では、とりわけ注で中ザワが三輪を 評して用いている「強靭な政治性」とは何かという話題が中心となった。まず、政治的な理由で三輪が参入したのか という誤解があり、それを慎重に訂正しつつ中ザワは次のように述べた。すなわち、三輪の「言葉の影、またはアレルヤ」に はきわめて快楽的な旋律が用いられているが、その快楽自身が目的なのではなく(中ザワは快楽の自己目的化に ポストモダン芸術の特徴として警戒を固めている)、あくまで目的を達成する手段・言語として快楽が用いられている ことを「強靭な政治性」と表現している。「言葉の影、またはアレルヤ」は殺人事件を扱った作品なので、その 旋律が快楽的であることには必然性があるというのが中ザワの理解であり、快楽の直接的な否定ではないが、 旋律の快楽性が作品の構成に道具的に隷属させられているという点において方法主義の禁欲性 と交通しうる部分を発見したという。

  ここで文献からはやや脱線しつつ、「言葉の影、またはアレルヤ」で主題とされている 殺人事件・酒鬼薔薇聖斗の話題から派生して社会談議になった。まず、注釈の中でその事件について 簡単な紹介を行っているのはその事件についての社会的記憶が風化した時代に当文献が読まれること への配慮であるということがあきらかになった。そして、中ザワに影響を与えたような社会的事件は あったかという田村の質問に対して、まず湾岸戦争についての話題が出たが、当時小学生であった皆藤 がそれを「わんわん戦争」と呼んでいたということから、やはり同世代の田村が類似した話題を接いでいき、 世代論的な話題へとますます脱線していった。そしてベルリンの壁崩壊が中ザワにとって比較的影響のあった 事件だということが浮上し、そのことについて田村が開放的な印象を受けたかどうかと 水を向けると、自由になったというよりはどこか不透明さが広がるようでそれに直ちに判断は下せない という印象を受けたという答えが返された。また、9・11については都庁付近に住んでいた 中ザワは、ペンタゴン攻撃のニュースを見ながら「今ここに飛び込んで来てもおかしくないな」と 他人事ではないという感覚を得たという。そして、ゴルゴ13ですでにビン・ラディンについて 親しんでいた中ザワはラディンのことを想起したが、報道でビン・ラディンの名前がメディアに現れたとき には「やっぱりな」と感じたという。

  そこからゴルゴ13と政治研究との関連性についてやや盛り上がったが、再び文献研究に戻りつつ 方法主義と戦争ならびにナショナリズムとの関係についての議論となった。これは<方法>が その機関誌で戦争特別号を発行する運びとなったについての第十三章の内容と対応している。参加者全員にとって 中ザワならびに<方法>が戦争特集号を出すということが何か特異なものとして受け取られていた。その上で、 第十三章の注で簡単に言及されているところの<方法>におけるナショナリズムの問題とは具体的にどういうことか という田村の問いに対して、まず中ザワはいわゆる右翼的な意味でのナショナリズムではないと訂正した。より広義な ものとしてのナショナリズムについて中ザワは、「ホリエモン的な」、自由市場寄りの、「ナショナリズムなんかくだらない ですよ」という立場がいいと発言している。また、ここで半田が中ザワのアートラン・アジアへの出品の話題を挙げたが、 中ザワによってここに特に政治的言説があったわけではなく、単に個人的な交友関係から出品が行われたということが 確認された。

  これに対して、<方法>における芸術とナショナリズムの問題とは、 たとえば母国語のように特定の地政学的領域に密接に 結びついたものを所与のものとして無批判に受け入れてしまうとき、その所与のものの地理的・歴史的な特異性が 普遍を志向する<方法>にとって障害となるということである。たとえば、松井の視覚詩集『回路』は 右閉じ左開きという日本(あるいは縦書き文化圏)特有の装丁を採用しているが、それが松井にとって 自明なものとして捉えられてしまうのは 彼が日本人であるからだという。しかし、それが決して自明なものではない人々(たとえば横書き文化圏である欧米人) にとっても納得のいくような右閉じ左開きであることの明確な根拠を明示した上で作品の構成を行うべきだ というのが中ザワの普遍に対する立場である。この意味でのナショナリズムの問題は、中ザワによれば、 <方法>の段階では解決していなかったという。そして中ザワ自身はたとえば五十音字という日本性を相対化するために ハングルやアルファベットでの作品を制作している。また、この意味でのナショナリズムの問題は、中ザワが目下 執筆中の現代美術史日本編の進行を遅らせている原因であるとも言及され、中ザワにとってこの問題が持つ重要性が 浮き彫りにされた。

  やや順番が前後したが、機関誌「方法」の英語化について述べた第十章についての議論がこれに続いた。 中ザワによれば、松井がもっとも英語化に積極的であり、三輪は日本に対するある種の失望から英語化を 推していたという。この過程については、当文献に記載されている以上に混乱があったようで、たとえば、 中ザワに最初に手渡された松井と三輪の原稿はいずれも外注による英訳がなされていたが、翻訳が克服すべき 微妙なニュアンスの違いなどがそのまま放置されていたために、中ザワは次回以降自分たちで 英文を書くようにと指示したという経緯があったことが明らかになった。この件について逸話を中ザワは 冗談めいた恨み節で語っており、たとえば、三輪が英文を原文とするようもっとも積極的に主張した 「にもかかわらず」日本語で原稿を書いてしかも翻訳は外注だった、という調子である。また、松井は 編集者として人名表記における姓と名の順番について強いこだわりをもっており、たとえば「 ベラ・バルトークはハンガリー人なので本来はバルトーク・ベラだが、ベラ・バルトークで 定着しているのでどうするべきか困る」などと氏名記載の語順について深い関心を持ちつつも、 現地での語順に従うのが近年の傾向であるという持論を持っていた。 三輪もこれに同調した。「にもかかわらず」、松井も三輪も自らの手による英語原稿で堂々と Shigeru MatsuiやMasahiro Miwaと書いてくるなどまったく言動が一致しておらず、中ザワはこれを直すはめに なったという。これら一連の中ザワの発言について「こういうの全部書いちゃっていいですか?」と聞く田村に対し 中ザワは「いいよ、いいよ、どんどん書いちゃえ」と答えたが、これはあくまで冒頭で述べた本報告の方法論を徹底 させるものであり、自らが作り出した場の勢いに自ら流されていったわけでは決してない。

  また、名前の話から派生して、中ザワの英語表記では「中」はどう表現されるのか、そして、中ザワはなぜ 「中」だけ漢字なのかという質問を田村が投げかけた。まず最初の質問について、中ザワは<方法>以前に一度 Naka Zawahidekiという表記法を考案したそうだが、「なんとなく」取りやめたという。そして、後者の質問である 「中」の由来には、以前講演で話したことはあるものの、まだ自分自身の筆によって言語化はしていないこと であるという。中ザワによれば、グラフィック展に出品した作品の表記がこの「中ザワヒデキ」の表記であり、 それがプレ期と第一期を明確に分かつものであると説明された。なぜ「中」以降がカタカナなのかという 点については、出品表を書く段階で「中」までを記入した中ザワの脳裏に「このまま漢字で書いてしまったら 今までの自分と何も変わらない」という考えが浮かび、「頭より先に手がザワヒデキと書き上げていた」、そして それを見て「これはいける」と思ったとのことである。そして、この話を終えた後に、「僕の作品は大体みんな 論理的に説明できるけど、名前に関しては論理的な説明ができない」と一言添えた。

  方法マシンの設立から<方法>の終焉までを描く第十四章以降については、まず三輪の「またりさま」の 趣旨である「新しい身体を作る」ということの意味について議論がなされた。始めに半田による「これは マスゲームのようなものですか」という質問があり、それを受けて中国三十五周年記念の天安門広場を九十六歩で 正確に通過する軍隊パフォーマンスの話となった。彼ら中国兵はその練習のためだけに同じ滑走路を歩き続けている とのことだが、半田が「そういう要求をしているんですか?」と聞くと中ザワは「そうだよ」と軽く答えた。しかし、 若干間をおいて、「またりさま」に限っていえば実態はやや異なるという訂正が加えられた。「またりさま」が要求 している身体とは、天安門行進のようにある特定の結果に対して身体を制限するのではなく、 たとえば運転者がとっさにブレーキを踏むような反射レベルの動作にまで音楽的行為を高めていった身体である。 それは寝ていた侍がバッと刀を振り上げるような身体の音楽版とでもいうものであり、天安門行進の合目的的な 身体とはむしろ逆方向にある。なお、同章において、松井が三輪の方法マシーン設立の申し出に同意を見せる形で 「つまらないくらい正確な「純粋詩」のリアライゼーションを見てみたい」と発言したと書かれているが、半田がこの発言を 引きながら「こっちは…」とまで発言した時点で中ザワが「これが天安門!」と即答した。つまり、実は、当文献においては 三輪が必要とした非・マスゲーム的身体と、松井が想起していたマスゲーム的身体は、賛成の意を示すという形で 混同されている(文章としてそう構成されている)。しかし、この一連のやりとりによって、これら二つの身体が向いている 方向性はむしろ逆であるということが明らかになった。

  ところで、第十四章では三輪が方法マシーンの設立を提案したメールの題名である「みわ、思いつめてます…」が 二度繰り返し収録されているが、この題名だけがあえて収録されているのはこの文面にどこかおかしみが 感じられるからだろうかという田村の意見に対して、中ザワは「そうです!」と笑顔で力強い返事をした。こうした遊び に、当文献の難解「趣味」的な位相が垣間見られる。

  なお、これらの章で明らかになるように、<方法>と身体は相容れないものである。方法マシンの指導にあたり 足立を顧問に迎えたのも、三輪のやや身体寄りの方向性に抑えをかけるものであり、これを機にしばらく 距離を置いていた中ザワと足立が急接近することになったと中沢は説明した。なお、中ザワにとって方法マシーンが <方法>でないことは当文献でも記載されているが、その認識は今も同様であった。とりわけダンスは方法主義にとっては 排除されるべき身体性の象徴であったことが、方法マシーンにのポスターにダンス的な外観が備わったことや ダンスTODAYに出演したことなどは中ザワにとっても皮肉な展開だったという。 なお、中ザワと三輪の立場の違いについては当文献の注十四にまとめられているが、この注十四の後半 部分と論理的に対応しているのが中ザワが美術手帳にて執筆した「還元主義から新表現主義へ」であるということが 述べられた。

  こうして、ひとまず当文献の各章ごとについての議論を終え、全体を振り返る運びとなった。まず、田村が <方法>とはつまるところ中ザワ個人だったのではないかという感想を述べると、中ザワはそれに同意し、また足立も 同様の見解を持っていたと答えた。また、半田がこの文章を書くことで<方法>を過去化=歴史化しているが、その意図 はなんだろうかという質問を差し向けると、中ザワはまず文中でも明言されているブランド化の意図を確認した後に、一方で、 過去化=歴史化することで<方法>の遺産を開放するという意図もあると述べた。中ザワによれば、現在進行形の 美術運動に対してはそれに部外者が手を出すことに少なからず抵抗を覚えるものだが、それがもしその主導者によって 明確に終焉を宣言されていれば、そうした抵抗を超えることもできるはずだという期待に立っているという。それが 当文献の社会的な意義となる。

  また、<方法>に対する反応はどうだったのかという漠然とした問いに対して、おおむね積極的な反応は 第一宣言の時点に限られたということ、全体を通じて美術家からの反応が少なかったこと(詩のコミュニティ からの反応のほうが多かったこと)、どこか肩透かし的な感じをうけたことなどを語った。これについて半田は、 <方法>の終焉後に岡崎市立美術博物館で行われた中ザワと岡崎乾二郎らの対談において、 <方法>がどこか判断しかねるものとして持て余されていたような印象を受けたと述べた。 こうした判断留保が解消されぬまま終焉したのが<方法>であったが、 この点について中ザワはもっとハッキリと反応があってもよかったのではないかと意見を表した。というのも、<方法> については美術作家からも評論家からも積極的で公的な反応がなく(あったとしても、たとえば、 2004年の美術手帳で斉藤環が中ザワについて論じた内容は、中ザワ本人としてはやや違和感を感じたという) 、だからこそ中ザワは自分自身の筆によってそれを言語化する必要に迫られたという側面もあると述べた。中ザワによれば、 中ザワ個人は本当は文章活動をやらなくていいと思っているが、他に書く人間がいないというジレンマの中で 文章活動を行っているということが言われた。それは、「僕が書かなければなかったことになってしまう」という 現実認識に立っているという。

  また、中ザワによれば、文献全体を通じて二箇所だけ訂正したい部分があるとのことであった。一箇所目は 第八章において足立に脱退を勧めるところの記述において<方法>同人らはカレーを食しているが、中ザワはこの 部分の締めとして「おいしいはずのカレーもすっかり冷め切っていた」という一文を入れるつもりが忘れていたという。 二箇所目は方法マシンの公演後に人々が中ザワの車からどんどん降りていく場面で、ここにある「中ザワの車」という 表記は本来ならば「約十四万八千枚のコインを積んですっかり重くなった中沢の車」と書かれるべきだったのだが、やはり 忘れていたという。なお、この状況を富山にて目撃した小笠原氏は、車がコインの重みでつぶれていたのが一目瞭然 である様子を携帯電話のカメラで撮影し半田に送信しているが、半田はその写真を喪失していた。 そして、この約十四万八千枚のコインを積んですっかり重くなった中沢の車が次の目的地富山に向かう途中に スピード違反で警察に捕まったことが余談として述べられた。訂正箇所はもともと上の二つのみだったのだが、 上述したように本報告では固有名詞を積極的に特定することへの合意が結ばれた。その流れで、一箇所目の訂正箇所の 舞台となっている「吉祥寺のカレー屋」も「豆蔵」と明言化したいということになり、結果として訂正箇所は 計三箇所となった。

  いつしか雑談の流れで富山県でタイルを用いて制作した絵画の話となり、タイルがビットマップ形式の ピクセル=原子として用いられているという話題になる。あくまで正方形をわざわざ作るのではなく、市販の 正方形としてタイルが選択されているのだが、ここで田村はひとつ質問があった。つまり、この作品で 中沢は所与の物質的制約をある程度引き受けた上で制作を行っているが、それはナンカロウが 自動演奏ピアノを改造して物質的制約を削減しようとしたことと関わるのか、もし関わるなら どう関わるのかということである。これについては来週の『作曲の領域』についての議論に持ち込めるだろうという 中ザワの舵取りもあり、 ひとまず本日の文献研究を終える運びとなった。

  三時間あまりの議論を休みぬきで終えたあと、次回の文献研究についての参考資料として シュトックハウゼンの「習作2」を試聴することになった。それから中ザワがシュトックハウゼンの対極にある作曲家と見ている ジェームズ・テニーの話題が出たが、音源がなかったので試聴は諦める。変わりにラモンテヤングの音源を聞く運びとなり、 快楽的だ、快楽的だ、という感想と共にしばらく耳を預けた。それから来週議論する文献である『中ザワヒデキの 5000文字』と関連するものとしてクルト・シュビッターズのウルソナタを聴くことになった。中ザワは、 五十音ポリフォニーは対位法で書かれた音響詩であるという点でシュビッターズに遅れを取っていると 理解していると述べられた。ドアをノックするものがあり、今日は校長がもう帰ったからちゃんと鍵を閉めていってください という注意を受けたことを契機にシュビッターズを聴きやめ、ついでに講座もお開きとした。

  美学校を離れる前に、田村が持参してきた炊飯器が中ザワヒデキ文献研究名義で美学校に寄付された。 中ザワは田村が持参した油性マジックペンで側面に自画像と講座名を記し、その半対側に田村が 「ローリーさん→田村→美学校」と当炊飯器のひとまずの来歴を記録した。ローリーさんというのは 二○○四年ごろ日本の実験音楽シーンについての研究報告をまとめるために東京に滞在していた コロンビア大学博士課程の文化人類学者であり、美学校の伊東篤宏・サウンド表現クラスに生徒として参加していた。 この炊飯器の導入によって次回以降の文献研究により味覚的なフェイズが導入されると期待されている。 それから夜の神保町へ繰り出し、大興にてアジア飯を囲んでビールとウーロン茶を流し込んだ。先週から文献研究一同の間で流行りつつある 美学校の広告文言から「この明らかに駄目な時代に」という一節をとことん濫用しつつ、芸術の犯罪性や方法芸術の 地下活動化について語り、予想外においしかったタイ風焼きそばを噛みしめながら来週の文献研究への鋭気を養った。

20071106 文責:田村将理
20071119 部分修正

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