AIと美学・芸術
中ザワヒデキ(美術家/人工知能美学芸術研究会代表)
東京藝術大学芸術情報センターAMC主催2019年度「メディア特論:アート+」
2019年5月23日18:00-

※人間の美学や芸術はいよいよ安泰ではない!!


●第1回AI美芸研(2016-06-19、美学校)
「人工知能美学芸術宣言について:反芸術の立場から」
アルファ碁の衝撃が第3次AIブームを加速し、世界的なAI開発競争に日本もよ
うやく参戦した。しかし産学官の連携指針が「AIは人類の幸福のため」との前
提を自問することはない。ならばわれわれが反芸術、反美学、反ヒューマニズ
ムの止めとして人工知能美学芸術を追究しよう。人類史の幕引きを歓迎する。

●第2回AI美芸研(2016-08-06、美学校)
「AI美芸研のアジェンダ」
美学を、人間が行うそれと機械が行うそれに分ける。芸術を、人間が行うそれ
と機械が行うそれに分ける。人工知能美学芸術宣言が問題とし、私が待望する
のは「機械が行う美学」かつ「機械が行う芸術」である。もともと安泰ではな
かった美学と芸術の語は、リセットされるか消滅するしかない。

●第3回AI美芸研(2016-10-16、美学校)
「循環史観とAI反芸術」
現代美術史は「前衛→反芸術→多様性」という流れを約30年周期で繰り返して
いる。2016年現在は反芸術期に入ったと私は考える。反芸術には人間の創造性
や可能性に疑義を呈するという側面があるが、これは、人間の創造性や可能性
はAIに将来代替されるのではないかという2016年的なビジョンと結託できる。
ちなみにAIが人間の制御を離れ、シンギュラリティが起こるかもしれないと言
われている2045年は、今から約30年後である。

●第4回AI美芸研「アンドロイド芸術解剖学」(2016-12-10、ABC)
「ミケランジェロ、ロダン、人工知能」
原石を削って磨く彫像の制作は、ミケランジェロにとっては「人を創る」こと
を意味した。物質という牢獄から、イデアたる魂を顕す形態を、解き放つと考
えていたのだ。これはイデア論的、トップダウン的に記号で人工知能を作ろう
とする「シンボリズム」(記号主義)に似た立場と言える。一方、粘土を寄せ
集めて肉付けする塑像の制作は、ロダンにとっては「混沌の美」の創発だった
のではないか。物質感を謳歌しつつ、様々な部分を結び合わして恐ろしい全体
と為した。これは学習単位の原子論的、ボトムアップ的な集積構造として人工
知能を作ろうとする「コネクショニズム」(結合主義)に似た立場と言える。

●第5回AI美芸研(2017-01-29、美学校)
「芸術の定義とフレーム問題、絵画の美と報酬系の設定」
人間にとっての芸術は、人工知能にとってのフレーム問題のようなものだ。芸
術とは何かが定義できればフレームが設定できる。ところが芸術は定義不能な
開かれた概念であり、または定義した途端に裏切られる宿命にある。しかもそ
の設定不能性が芸術の醍醐味でさえあるのだ。では絵画はどうか。絵画とは色
彩に覆われた平面であると定義すれば、フレームは設定できる。次なる課題は
どういう絵画が「美しい」かである。これは、絵を描く人工知能にどのような
報酬系を設定するかという問題に敷衍できるが、設定主体が人間である限り美
学に変更は無い。設定主体が人工知能の自律性に委ねられる時、激震が走る。

●第6回AI美芸研(2017-03-26、美学校)
「我々はなにゆえ人工知能を面白いと思うのか」
第四次産業革命を惹起するからでも、大量失業が予測されるからでもない。レ
ンブラントの新作を描いたからでも、リヒテルとしてベルリン・フィルの団員
と共演したからでもない。我々はなにゆえ人工知能を面白いと思うのか。それ
は真の人工知能の実現が、感覚質(クオリア)は有るのか無いのかという議論、
或いは人間に尊厳は有るのか無いのか、神は居るのか居ないのかとの問いに、
最終決着を下すからである。すなわち人工知能の何が本質かというと、ただの
物質に意識または意識以上に見えるものを工学的に実装することによって、感
覚質も人間の尊厳も神の存在も、一種の錯覚に過ぎないと証明することである。

●第7回AI美芸研(2017-07-02、美学校)
「価値と君主制とAI占い」
王朝興亡史として語ることができる他地域とは異なり、欧州史は君主制を軸に
民衆称揚時代と一神教支配時代の二極に揺れる振幅として理解される。古代都
市の直接民主政体は衆愚により自滅し、ローマ皇帝による専制君主制を経た後
に、意味と価値が神に規定される中世に至った。ルネッサンス以降の逆コース
は、芸術を庇護した絶対君主政体を革命で倒して現今の民主制に立ち返ったが、
それを同語反復あるいは「芸術のための芸術」という価値無き衆愚の再来と見
るならば、賢君統治を是としたプラトンに倣いAI君主論を今こそぶちあげてよ
い。だがそれは占いの復権に、良くも悪くも似通うこととなる。

●第8回AI美芸研「人工知能と軍事」(2017-08-12、原爆の図丸木美術館)
「軍事力は芸術価値をも決定する」
アメリカ美術はかつてはホッパーのように単なる地方芸術だったが、ポロック
以降、世界画壇の覇者として君臨するようになった。これはどうしても、同国
が核保有の超大国となったことと切り離せない。明治神宮外苑の聖徳記念絵画
館は戦前の日本の国策の縮図だが、原爆の図丸木美術館は体制変革のもうひと
つの刻印だ。核が超大国の切り札として機能しなくなりつつある現在、次なる
カードとして核以上の危険と背中合わせに開発が進められている軍用AIは、結
論を急ぐなら、人びとが拠り所とする芸術文化価値一切をも激変させるだろう。

■第9回AI美芸研[01]「AI美学と芸術」(2017-11-12、OIST)

■第10回AI美芸研[02]「意味/無意味と言語」(2017-11-25、OIST)

■第11回AI美芸研[03]「未来のAI」(2017-11-26、OIST)
「“機械美学/機械芸術”に至る道程」
人間が目標を与えれば、人工知能プログラムはよく動く。ブランコロボット
はわずか十数分で人間以上の漕ぎ方を編み出すし、AI囲碁同士の対戦は人間
の理解を超えた神の闘いとなる。だから人間が人間の美学を自明的な目標と
して与えれば、人工知能は芸術を作る。これが「人間美学/機械芸術」だ。
ところが人間の美学は自明ではなく、たとえば機械計算でできたエッフェル
塔は芸術家から美的でないと当初非難された。こうした「機械美学/人間芸
術」は、芸術自体を目標化した「芸術の為の芸術」に行き着く。さて今日、
人工知能は自分の目標を見つけられない。しかしこの前提が崩れれば、人工
知能は機械美学を目標とした芸術を作り得る。これが「芸術の為の芸術」に
行き着けば、人間の理解を超えた「機械美学/機械芸術」が出現する。

●第12回AI美芸研(2017-12-02、tomari)
「人工知能美学芸術展について」
美学を、人間のそれと機械のそれに分ける。芸術を、人間のそれと機械のそ
れに分ける。現在OISTにて開催中の「人工知能美学芸術展」では、そうして
生じた四つの部門に分けて展示を行っている。すなわち、「[Ⅰ]人間美学
/人間芸術」「[Ⅱ]機械美学/人間芸術」「[Ⅲ]人間美学/機械芸術」
「[Ⅳ]機械美学/機械芸術(と、そこに至る道程)」にそれぞれ該当する
作品が、OISTキャンパスの全体に展開されている。

●第13回AI美芸研(2017-12-09、tomari)
「人間美学が置いてけぼりとなる時」
19世紀人は美的でないという理由でエッフェル塔建設に反対した。機械美学
に人間美学が追いつけなかったのだ。20世紀人はエッフェル塔を美しいと讃
えた。機械美学に人間美学が追いついたのだ。21世紀人はAI碁同士の対戦棋
譜が理解できない。機械知性に人間知性が追いつけていない。では22世紀人
はAI碁同士の対戦棋譜を理解するのか、と言えばその保証は無い。いつか機
械知性に人間知性は恒久的に追いつけなくなる。いつか機械美学に人間美学
がすっかり置いてけぼりにされる。人間は歴史や権威の担い手ではなくなる。

■第14回AI美芸研[04]「AI美学と多神教」(2018-01-06、OIST)

■第15回AI美芸研[05]「人工意識 / 人工生命」(2018-01-07、OIST)

■第16回AI美芸研[06]「AI美学と機械」(2018-01-08、OIST)

●第17回AI美芸研「人工知能・美学・美術」(2018-04-01、美学校)

●第18回AI美芸研「人工知能・美学・音楽」(2018-04-19、ゲーテ東京)

●第19回AI美芸研「感性と計算」(2018-06-24、美学校)
「心は計算である -美の定量と反芸術-」
人工知能がやっていることはただの計算なので、心を持つことなどあり得な
いと考える人は多い。そして同時に、人間の脳はただの物質にすぎないとも
信じていたりする。だがこれは、よく考えれば矛盾だ。脳は100%物質ででき
た計算機だが、そこに心が宿るとするならば、同じく100%物質でできた計算
機上の人工知能にも、心が宿る可能性があることになる。これは逆向きにも
言える。100%物質でできた計算機上の人工知能は計算しかしないので心は無
い、とするならば、100%物質でできた脳も計算しかしないので、人間に心は
無いことになる。この議論を調停するには、計算と心は別物という先入観を
疑えばよい。心は(複雑な)計算である。美の定量、反芸術に話が繋がる。

●第20回AI美芸研「芸術哲学的ゾンビ」(2018-08-18、なかのZERO)
「人工知能と美学と芸術」
人工知能が描いた絵と聞いてももはや驚かない。恐らくそれは、人間が人工
知能という道具を使って制作したものであり、人工知能が内発的に創作した
ものではない。そして一方では、芸術は人間に固有の属性で、真の意味での
芸術が人工知能にできる訳がないという根強い信仰がある。では改めて、人
工知能が真に芸術を創作するとはどういうことか。私はこれを考えるにあた
って「人工知能に美意識は芽生えるか」という問いを避けて通れなかった。
美学的ゾンビ問題と言い換えてもよい。さらには、それが人間には到底芸術
とは思えないものだとしても「人工知能が真に芸術を創作した」と判定する
ための条件を考えるなら、コギトの発生確認も不可欠となる。

●第21回AI美芸研「美意識のハードプロブレム」(2018-10-13、なかのZERO)
「機械的情報と意味論的情報」
知らない外国語の文字で記された単語は、観察主体にとっては視覚的な機械
的情報に過ぎない(シニフィアン/原子論側)。しかし辞書等で既知の言語
に翻訳されれば意味論的情報に変貌する(シニフィエ/イデア論側)。この
時、同じ対象でありながら観者にとっての美的価値も上昇または下落する。
新国誠一の視覚詩は、文字の視覚的側面と意味的側面の同居により成立して
いる。数列は一見、数の羅列にしか見えなくても、観者が背後の方程式に気
づくと意味が生じ、美醜の対象にもなる。都築潤は、エンコードとデコード
の間断ない継起が創作の本質だと言っているように私には思える。客観と主
観の間に横たわる意識やプロジェクションの概念と関わる、最奥の課題だ。

●第22回AI美芸研「ザ・直感」(2018-12-23、美学校)
「直感計算」
直感。この、「チョッ」という瞬息の破擦音・拗音・促音の組を、「カン」
という破裂音・撥音で潔く受け止める響き自体が、すでに直感的だ。こうし
た物言いはおよそ論理的ではないが、そもそも直感と論理は対立項だ。しか
しながら直感は、計算不能な神秘ではない。最近の人工知能が直感を扱える
ようになったと言われるのは、ベイズ推定や深層学習等、経験を数値化し計
算処理する技術と能力が進展したからである。すなわち直感も論理もどちら
も計算なわけだが、後者が方程式的なものだとするなら、前者は表計算的な
ものだと言えるだろう。予め表計算ソフトに経験値と経験則を仕込んでおけ
ば、入力した途端、解が出力される。それが瞬息で潔い「チョッカン」だ。

●第23回AI美芸研「生命美学と環世界」(2019-03-24、美学校)
「喜舎場盛也の文字と色:方法とアウトサイダー」
浦添市の施設に通う喜舎場盛也は、紙面を手書きの漢字で埋めていく作品が
有名だ。余白の取り方ひとつ取っても、我々には定かではない一定の規則性
が感じられ、魅力につながっている。私はかつて文字を画素とする作品を展
開し方法主義を提唱していたため、喜舎場には以前から着目していたが、彼
が5年ほど前から取り組むようになったのは色のドットの作品である。これ
は、私が文字を画素とした際に拠り所とした印象派の色彩分割と筆触分割の
理論を、結果的に彼も知っていたことを示唆する。2017-18年の「人工知能
美学芸術展」では、喜舎場の漢字シリーズもドットシリーズも展示した。
人工知能が到達し得る「知」について、ここを起点に考えたい。

●第24回AI美芸研「宗教と数理脳」(2019-05-02、淀橋教会)
「AIに宗教心は芽生えるか」
神と脳については、神が脳をつくったのか、脳が神をつくったのかと問うこ
とができる。万物は神の被造物だとするなら前者だが、唯物論の立場であれ
ば「神は人間の脳がつくりだした概念」すなわち後者である。
神とAIについては、AIが神となるのか、AIが神を信じるのかと問うことがで
きる。人間が自分で考えずにAI任せのAI教となるなら前者だが、AIをヒトの
脳に似せて作るのであれば、やがてAIは神という概念さえつくりだし宗教心
も芽生えて後者となるだろう。
一つ目の問いの後者と二つ目の問いの後者は「神という概念をつくりださず
にはいられない知能」を前提としている。これを、因果性を希求する仕組み
と読み替えて、AIへの実装を考えたい。









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