方法
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方法主義年表
1990年頃 - 2004年12月31日

構成: 中ザワヒデキ



1990年頃
詩人の篠原資明が自身の作品を「方法詩」と呼んだ。

1997年6月
イラストレーターだった中ザワヒデキが、美術家としての最初の個展を東京のギャラリーNWハウスで開催した。文字を使用した出品作群は方法主義のアイディアを初めて展覧したものだったが、まだ方法主義と命名していなかった。文字を使用した音楽作品の発表もあった。ちなみに中ザワは、この個展の時点までに篠原の詩作品に着眼し、音楽家の足立智美の音響詩パフォーマンスに接し、作曲家の三輪眞弘の著書を読みCDを聴いていた。この個展の後、足立は中ザワに「足立智美ロイヤル合唱団」のための作曲を委嘱した。

1999年2月
三輪が東京のインターコミュニケーションセンターで、音楽の講義と演奏のシリーズ「ICCニュースクール」を開催した。中ザワをゲスト講師の一人として招いた。きっかけは、三輪が、「ユリイカ」誌に掲載された中ザワの文章「作曲の領域 シュトックハウゼン、ナンカロウ」を読んだことだった。

1999年3月
足立が東京の三鷹市芸術文化センターで、実験音楽イヴェントシリーズ「音楽工作所」をスタートさせた(1999年11月まで)。その第二回で、中ザワをゲストアーティストとして招いた。

1999年4月
詩人の松井茂を含む詩の同人「ミて」が、東京のカンダパンセで、詩的言語会「カタって」をスタートさせた(2000年6月まで)。その第一回で、中ザワをゲストスピーカーとして招いた。きっかけは、同人のひとりで作曲家の高橋悠治が、中ザワの音楽作品を聴いたことだった。

1999年5月
中ザワが二回目の個展を東京のギャラリーNWハウスで開催した。Eメールアート作品の配信もあった。この展覧会以降、中ザワは個展やグループ展を数多く行うようになった。

2000年1月1日
「方法主義第一宣言」(起草: 中ザワ、起草立会: 松井、起草立会: 足立)。発表は1000通以上のEメール、500通以上の年賀状で行われた。ちなみに年賀状では「方法絵画、方法詩、方法音楽」と題し日本人あてに日本語で発送し、Eメールでは「方法絵画、方法詩、方法音楽(方法主義宣言)」と題し日本人あてには日本語に英訳を付し、一部の外人あてには英訳文のみで配信した。「第一」の語は後から「第二」等と区別するため付された。

2000年2月29日
中ザワ、松井、足立によるEメール機関誌「方法」発刊。日本語による隔月刊で、ゲストアーティストのテキスト一点とウェブ作品一点、同人三名のテキスト三点とウェブ作品三点を掲載。「方法 第1号」のゲストは篠原資明。

2000年8月
中ザワ、松井、足立の「方法鼎談」が日本の新聞「図書新聞」に掲載された。

2000年10月
中ザワがバンフ・アーティスト・イン・レジデンス(カナダ)に参加し、日本の国外でも方法主義を紹介し始めた。

2000年12月
中ザワ、松井、足立の「第二回方法鼎談」が日本の美術雑誌「美術手帖」に掲載された。

2001年1月1日
「方法主義第二宣言」(起草: 足立、起草立会: 中ザワ、起草立会: 松井)。Eメールと年賀状による発表。

2001年3月10日、11日
福岡の北九州市立美術館の内外で中ザワ、松井、足立による「第一回方法芸術祭」。三名の共作作品の発表もあった。

2001年8月19日
東京のペッパーズ・ギャラリーで、くヲ(音)+松井茂(方法詩)+滝本あきと(踊り)によるライヴパフォーマンス「BG(M or P)?」。くヲは、作曲家の鶴見幸代の別名。

2001年12月31日
足立がグループから離脱。「方法 第12号」に彼の最後のテキストとウェブ作品が掲載された。

2002年1月1日
「方法主義第三宣言」(起草: 松井、中ザワ、起草立会: 三輪)。Eメールと年賀状による発表。三輪がグループに加入。

2002年3月3日
日本語のみで刊行されていたEメール機関誌「方法」が第13号より英語での刊行へと変更となり、国際的に配信されることとなった。日本語訳は日本人あてにも配信されず、ウェブのみに掲載された。

2002年3月24日
京都の京都芸術センターで三輪と中ザワによる「方法音楽コンサート&トーク」。

2002年4月14日、28日
東京の阿佐ヶ谷ギャラリー倉庫で中ザワ、松井、三輪による「第二回方法芸術祭」。三名の共作作品の発表もあった。

2002年5月-7月
東京の美學校で中ザワが講座「方法主義宣言」を毎週担当。

2002年9月14日
川村龍俊が月例イヴェント「Winds Cafe 69」のゲストアーティストとして中ザワを招いた。後に川村は「Winds Cafe 75」に松井を、「Winds Cafe 81」に三輪を招いた。足立は「Winds Cafe 03」と「Winds Cafe 70」に招かれていた。

2002年9月
メディアアートのインターナショナル・オンライン・アリーナ「empyre」で中ザワがゲストアーティストとして半月にわたって方法主義に関するオープン・ディスカッション。

2002年12月
埼玉の浦和美術館で松井のディレクションによる講義と演奏のシリーズ「方法詩について」(2003年1月まで)。

2003年1月1日
Eメール機関誌「方法」が第18号より新フォーマットに変更。ゲストアーティストの廃止、隔月刊から月刊への変更(毎月1日発行)、テキスト一点とウェブ作品一点への軽量化。また、日本語読者に対しては「日本語併記版」として(原文英語+日本語訳)、英語読者には現行通り(原文英語のみ)配信された。2002年11月に始まった中ザワのニューヨーク市でのA. I. R.(2003年10月まで)により、英語読者が増大した。

2003年1月24日
ニューヨーク市のISCPのスタジオまたは市内他所で、中ザワが月例イヴェント「方法の夜」を開始(2003年9月まで)。

2003年4月1日
「方法 第21号」で「方法主義参戦宣言」の発表(起草:グループ「方法」)。

2003年12月14日
東京のアペルで松井、中ザワ、三輪によるイヴェント“「方法」実演とお話”。

2004年1月1日
Eメール機関誌「方法」のフォーマットが第30号より小規模変更。グラビアコーナーの新設、ならびに日本語読者に対しては「日本語版+英語版」として、英語読者に対しては「英語版」として配信(原文と訳文の区別を撤廃)。

2004年6月
三名の方法主義者を名付け親として、リアライゼーション集団「方法マシン」設立。代表は鶴見幸代。

2004年10月16日、17日
横浜の神奈川県民ホールで開催された三輪眞弘監修「演算するからだ展」に方法マシンがパフォーマーとして参加。

2004年12月5日
東京のスカイ・ザ・バスハウスにて「方法マシン第一回定期公演」。

2004年12月31日
Eメール機関誌「方法」の終刊。最終号は第42号。方法主義者グループとしての活動の終止。同誌上で「方法主義第四宣言」(起草: 足立)。



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